2022年
8月12日(金)

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啄木の才を見抜いた名伯楽 森鴎外没後100年 生涯通じ2度来盛 胡堂は「穏健な好紳士」と評

2022-07-08

東京都三鷹市の禅林寺の鴎外の墓、向かいには太宰治の墓、盛岡市と友好の文京区に森鴎外記念館がある

 7月9日は森鴎外(1862―1922)の没後100年。鴎外は、明治の歌壇で啄木と交わった。その生涯に盛岡市を2度訪れ、1914(大正3)年には史伝「栗山大膳」執筆のため、愛宕山の墓碑を詣でた。野村胡堂は文豪の横顔を、記者のペンで伝えた。陸軍軍医の森林太郎としては盛岡市出身の本堂恒次郎(1865―1915)と、脚気の究明にあたった。岩手との縁をたぐる。(鎌田大介)

 ■天才歌人の伯楽
 鴎外は啄木の才を素早く見抜き、詩を愛読した。出会いは1908(明治41)年5月2日。啄木が与謝野寛に伴われた観潮楼歌会。

 啄木日記には「森鴎外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋」とある。

 歌会のあるじに対して、「鴎外氏は、色の黒い、立派な体格の、髭の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であった」と感服。当時は軍医として位を極めており、陸軍省医務局長であった。

 啄木は翌年1月9日まで、鴎外の歌会に5回出席している。鴎外の好意にすがり、小説「病院の窓」「天鵞絨」の原稿を託し、出版社に紹介してもらったが、日の目を見ず。のち啄木が創刊に係わる歌誌「スバル」の命名は鴎外の発案だった。

 ■軍医の脚気論争
 鴎外は島根県津和野出身。東京帝大に医学を学び、陸軍入りして軍医となった。帝大卒後の1882(明治15)年秋、公務で初めて盛岡を訪れた。

 東北出張で青森県から上り10月9日、小繋から沼宮内へ。紀行には「右手に岩手山を望み午後四時盛岡六日町なる齊藤といふ家に着きぬ」とある。翌10日は紫波町の郡山から水沢まで上った。

 その頃、盛岡の本堂も、青雲に医学を志していた。仁王小、猪川塾、旧制一高を経て1892(明治25)年、東京帝大医学部卒。日清、日露戦争に衛生予備隊長として活躍した。

 本堂の娘婿は、昭和戦前の安倍寛、孫は自民党の安倍晋太郎、ひ孫は安倍晋三元総理と、山口県選出で3代にわたり衆院議員を務めた。

 明治末期の陸海軍と日本医学界では、脚気の克服が大きな課題であった。日露戦争では脚気により多くの戦病死者を出し、原因を糧食に求める学派と、病原菌を特定しようとする学派が対立し、鴎外は後者だった。

 陸軍は1908年に臨時脚気病調査会を発足し、当時は医務局長であった鴎外を会長に、委員には陸軍軍医学校教官で一等軍医正の本堂が選ばれた。

 軍医学界挙げた論争と研究により、脚気は白米の糧食によるビタミン不足に起因すると分かり、のち鴎外は批判にさらされる。

 ■黒田騒動に取材
 栗山大膳利章(1591―1652)は寛永年間の黒田騒動によって九州博多から盛岡に流され、南部藩に預けられた。鴎外は「利章は盛岡に在った時四十四歳で、まだ元気盛んであったので、妾内山氏を納れた。此女の腹に、後に女子が出来た」と書き、大膳を悲運の義士として描いた。

 盛岡については「利章の墓と大きな碑とが、今陸中國磐手郡米内村愛宕山法輪院址の山腹に残ってゐる。妾内山氏の生んだ女子には婿養子が出来て、南部家に仕へた。内山善吉と云ふ二百石取りがそれである。栗山の名は人に故主の非を思わせるからと云って、利章がわざと外戚の名字を冒させた」としたためた。

 この作品は1914年9月の雑誌「太陽」に掲載。陸軍の組織にあったみずからの苦衷を、史伝に託したと言われる。


大正元年11月29日に鴎外が小山内薫に宛てた手紙(野村胡堂記念館蔵)

 ■あらえびすの評
 その年から野村胡堂は報知新聞記者として著名人にインタビューし、連載後は「傑物?変物?人類館」の題名で単行本になる。

 鴎外の章には「資性少々神経質だと云ふ人もあるが、打見たところでは極めて穏健な好紳士、若い文学者などは誠によく見てくれるらしい。貧乏性の文学者として軍医総監を兼ね、侍医寮出仕を兼ね、博士号を二つも持つと云ふのは真に奇中の奇と云ふ可きだ。恒の産を成す事も知らずして、親不孝を自慢のように心得ている若い文士共は、少し位見習っても悪くなかろう」と書いており、啄木とは対照的な境地で文豪を敬っている。

 紫波町のあらえびす記念館には胡堂収集の鴎外の書簡が残る。

 原敬と鴎外の辞世に通じるものを、墓碑に読み取る向きもある。



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