2023年
3月24日(金)

全文を読む

県内にも確かな足跡 山形県で即身仏になった鉄門海上人と弟子鉄竜海 岩手町と盛岡市に石碑 中村安宏岩手大教授ら解読

2023-01-05

 岩手大人文社会科学部の中村安宏教授と、八幡平市の鹿野朱里学習支援員は、江戸時代の即身仏の鉄門海上人(1759―1829)の県内の事績を調べた。岩手町の豊城稲荷神社の碑文を解読したところ、「行者鉄門上人」と刻まれ、ゆかりが分かった。盛岡市乙部では、鉄門海の孫弟子の鉄竜海の碑を、小坂稲荷神社に発見した。山形県に即身仏となった上人たちが南部領、岩手県内に確かなしるしを残していた。

岩手町の豊城稲荷神社の鉄門海ゆかりの石碑


 中村教授は藩政時代の民俗などを研究し、昨年、論文「鉄門海の思想『亀鏡志』の分析を中心に」をまとめた。研究対象となった岩手町川口の豊城稲荷神社を訪れると、丘の上に二つに折れた石碑があった。

 既に民間の研究者が碑面をあらためていたので、その資料を参考に文字を調べ、折れた面をつなげると、「一天泰平国家安全文政元年 月山 玉東山 寅十二月八日 湯殿山 金比羅塔 羽黒山 岩鷲山 行者鉄門上人 五穀成就當村安全 奉修護神佛大師遍照金剛 木食宗海」とあった。

 中村教授は「月山が玉東山と呼ばれて、姫神山に重なる。湯殿山が金比羅塔。羽黒山が岩鷺山。出羽三山まで行けない人たちが、近くの山を月山などに見立てて信仰していたことが分かる」と話す。

 「金比羅さまは海運の安全の信仰。ちょうどこの地域は北上川の上流域。それで、湯殿山と重ねてまつられていたのではないか。北上川の舟運にも関係している。山形の最上川にも、金比羅信仰が多い。これは山形大の岩鼻通明先生が言われている。上流域なので、そこに水運の神様をまつったのではないか」と話し、当時の水運にも関連していた。

 鉄門海は1759(宝暦9)年に、山形県の鶴岡大宝寺村に生まれた。1779(安永8)年に湯殿山注連寺に入門し、1788(天明8)年5月ごろ、30歳で千日間の山ごもり。1791(寛政3)年には本明寺の住職になり布教と奉仕を始めた。庄内地方の振興に尽くして法名高く、1817(文化14)年には京都の御室仁和寺から上人と認められた。


盛岡市乙部の小坂稲荷神社の鉄竜海ゆかりの石碑


 岩手県内には1812(文化9)年ごろ、二戸を訪れたという。山田町にも石碑があり、岩手町で3カ所目のゆかりが分かった。

 中村教授はさらに、鉄門海の孫弟子の鉄竜海にまつわる碑も明らかにした。鉄竜海の碑は盛岡市乙部の小坂稲荷神社で、碑面に山形県鶴岡市の南岳寺の即身仏「鉄竜海」の名前を発見した。県内初で、盛岡地域における鉄竜海や信者の足跡がうかがわれる。

 1881(明治14)年まで生きた鉄竜海は、進堂勇吉の本名で、秋田県の仙北郡生まれ。1871(明治4)年には鉄門海の遺志を継いで、加茂坂新道を開削した。1881(明治14)年には鶴岡で入寂(にゅうじゃく)し、遺体は注連寺に運ばれて内臓を出され、即身仏として南岳寺にまつられた。

 小坂稲荷神社の碑には「慶応元乙丑年 月山 木食行者 鉄竜海上人 湯殿山 羽黒山 八月八日 當村講中」と刻まれ、1865(慶応元)年に鉄竜海の名を留めるため建立されたことが分かった。

 中村教授は「鉄竜海が実際に訪れたかは分からないが、県内では初めて見た」と話し、明治初期の民間信仰の実相に迫っている。



前の画面に戻る

過去のトピックス