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- 花柳界に出合えた幸せ実感 盛岡芸妓のいま(下) 一本立ちして10年の富勇さん 「受け継いだものつなげる」
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2023-01-18
盛岡芸妓の富勇さん
盛岡芸妓の富勇(とみゆう)さんは2010年2月、当時盛岡市が募集した見習い芸妓に採用され、12年10月に盛岡芸妓としてお披露目された。この10年、先輩芸妓とお座敷を回り、盛岡芸妓の芸の高さと「過不足なく、人に尽くす」というもてなしを学んだ。「人に恵まれたということはもちろんだが、盛岡の花柳界に出合えたことこそ、幸せなこと」と実感している。(藤澤則子)
富勇さんは奥州市水沢出身で、3歳から日本舞踊の稽古を始めた。
中学生の頃に「舞妓さん」に憧れて、親にも相談したが、その道に進むことなく高校、大学へ進学。その頃、たまたま新聞で目にしたのが「盛岡芸妓見習い ハローワークで募集」の記事だった。
当時、メディアに登場する舞妓や芸妓は京都、東京が多く、「地方に芸者衆がいることは思ってもみなかった」。それでも、学生時代に親しんだ歌舞伎に通じる踊りや三味線の稽古を受けられることと、芸妓への憧れも再燃し、地元のハローワークでエントリー。面接を経て、見習い芸妓の一人に採用された。
稽古が始まって最初の1カ月は日本舞踊、次いで三味線、しばらくして長唄、見習い1年目から常磐津の見学をさせてもらった。
それらの習い事に加え、「姐さん方はもとより、料理屋の旦那さんや女将(おかみ)さん、仲居さんそれぞれから、その道のしきたりを教わった」。
盛岡は古くから、芸事が盛んな地域として知られる。郷土史に詳しく諸芸に通じていた橘不染が歌詞を書いた祝いの曲なども残されており、「踊りは残されていないが、当時の新曲の歌詞がある。中には100年以上歌われている曲もあり、お姐さん方が受け継いできたものは大きい」。
民間会社に所属しながら稽古を続けてきたが、2016年4月に完全に独り立ちし、そこからの1、2年で気構えが変わった。
同じ常磐津の師に学ぶ縁で、東京の柳橋(かつての花街)、新橋の芸妓と交流があったことなど、姐さんたちから聞いた話も本当の意味で分かるようになってきたという。
盛岡の街にも思い入れが深まった。「芸事の盛んな盛岡は、着物が似合う街。70代以上の方は自分で着物を着る方も多いが、子や孫の世代になると少なくなる。祖父母の着物をリメークしてでも、自分で着付けができる人が増えるといい」と芸妓として自分ができることを模索。「着物を普段着にすることを、盛岡から再興したい」と願う。
最初に稽古した「金山踊り」「南部音頭」はいまでも思い入れがある曲だが、芸と同じくらいに大事だと感じているのが姐さんたちや師から聞いた盛岡や花柳界の物語。「姐さん方から継いできた素晴らしいもの、さらにいまあるものをつなげていきたい」と、気持ちを新たにする。
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