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啄木 妹へ悲痛な思い 三浦さん(光子の孫)自筆書簡など盛岡市に 21年2月資料展で公開へ

2020-02-19

「石川啄木書簡石川光子宛(1908年7月18日)」

 盛岡市出身の歌人石川啄木の実妹である三浦光子(旧姓石川、戸籍名ミツ、1888~1968)の孫の三浦哲朗さん(62)=兵庫県神戸市=がこのほど、盛岡市に三浦光子関係資料を寄贈した。寄贈資料は、啄木自筆の光子宛て書簡を含む9件15点。18日には収蔵先となる同市渋民の石川啄木記念館(森義真館長)で寄贈式が行われ、三浦さんが盛岡市教委の豊岡勝敏教育部長に目録を手渡した。

 光子は啄木と同じ渋民の宝徳寺に生まれ、兄らとともに北海道に渡った。名古屋の聖使女学院に学びキリスト教の婦人伝道師となって各地を回り、牧師の三浦清一と結婚。夫の死後は神戸愛隣館の館長として恵まれない子どもたちの更生福祉に当たった。

 寄贈資料のうち「石川啄木書簡石川光子宛(1908年7月18日)」「石川啄木書簡石川光子宛(12年2月16日)」は啄木の自筆。08年は文学で身を立てようと上京したがうまくいかず生活が困窮していた頃で、悲痛な思いを妹に伝えている。12年の書簡が書かれたのは、啄木が腹膜炎で入院し退院するも体調が戻らず、妻節子は肺カタル、母カツが結核を患っていた時期。啄木の苦しい現状への不満が記されている。


「石川啄木写真(裏に撮影日等の記載有)(明治35年秋9月撮影)」


 「石川啄木書簡石川光子宛(丸谷喜市代筆)(1912年3月21日)」は、啄木の生涯で最後の手紙と推定される。冒頭に「自分では書けないから友達に代筆してもらう」という旨の記述があり、友人である経済学者の丸谷喜市の代筆でつづられる。文面では母カツの死や啄木自身の病状を知らせ、啄木はこの後1カ月も経ない4月13日に26年2カ月の生涯を閉じた。

 その他、02年撮影と思われる「石川啄木写真」の原本、金田一京助が光子に宛てた書簡、光子が啄木の短歌を書いた掛け軸4点、父の一禎が光子やその夫清一に宛てた書簡、一禎の歌稿などが寄贈された。今回の寄贈資料は、2021年2月開催の収蔵資料展で公開される予定。三浦さんはさらに多くの写真や資料を石川啄木記念館に寄せており、今後整理を経て寄贈を見込む。

 光子の長男の息子である三浦さんは、亡くなった父から光子関連の資料を受け継いだ。公の場に寄贈したいと考えた際、東京都の文学館なども考えたが、盛岡市が運営し光子や啄木の生まれ育った渋民に立地する石川啄木記念館への寄贈を決めたという。


資料を寄贈し感謝状を受けた三浦さん(左)、目録を受け取った豊岡教育部長


 啄木ファンでもある三浦さん。「明治の文学の中でも青春の文学という言葉がぴったり。渋民の自然を歌ったきれいな歌もあり、何度読み返してもいいと思う。最近は本を読まない人が増えていると言われるが、活字だけでなく自筆の手紙などを読んでもらうと、何か感じられるものがあると思う。若い人にぜひ見てもらいたい」と語る。資料が今後盛岡で紹介されるに当たり、「啄木自身に関する資料はいろいろ展示されているが、妹の光子も社会的な活動をした人。そういうところもぜひ知ってもらいたい」と期待した。

 豊岡教育部長は寄贈を受け、三浦さんに谷藤裕明市長からの感謝状を贈呈。「非常に価値の高い資料と思っている。記念館に収蔵して展示し、市民はもとより市外からの観光客、多くの皆さんにご覧いただきたい」と語った。

 森館長は「一次資料が少なくなっている中、これほど貴重な資料が収蔵されて多くの人に見てもらえるのはありがたい。より啄木の人間性、誰にでも分かってもらえる短歌の良さを含め、いろいろなことを伝えられる」と歓迎。「全国から訪れる啄木ファンはもちろん、文字資料に親しみのない方にも直筆書簡など現物を見てもらい、啄木の息吹に触れてほしい」と語った。



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