2021年
4月23日(金)

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高く飛べるを 岩手もりおか航空史① 空の黎明に啄木感動 愛橘の働きで東大研究所

2021-02-27

 今年は1910(明治43)年に日本に飛行機が登場して111年目。この間、岩手県人がわが国の航空界に大きな足跡を残している。71(昭和46)年7月には雫石町で全日空機と自衛隊機が衝突し当時、世界最大の航空機事故から50年目にあたる。空の安全と発展のために岩手、盛岡から日本の航空史を見てみよう。題して「高く飛べるを」。第1回は物理学者の田中舘愛橘(1856―1952)を中心に。
 (鎌田大介)=毎月1回連載します。

 ■啄木と空の黎明

 晩年の石川啄木は、日本の空の黎明に大きな感動を覚えていた。1911(明治44)年に名詩「飛行機」を書き、「見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを」と当時の文明の最先端に憧れた。その年4月2日の啄木の日記には「新聞には花の噂と飛行機の話が出ていた」とあり、歌人の好奇をうかがわせる。

 ライト兄弟が米国で飛行機を発明して7年後の1910年12月19日、東京の代々木練兵場で陸軍の徳川好敏と日野熊蔵の両大尉がわが国初飛行に成功。機体はフランス製「アンリ・ファルマン」とドイツ製「グラーデ」。2人は臨時軍用気球研究会の委員だった。

 日本の航空界は、この研究会を母体に生まれた。そこには岩手県人が深く関わる。1909(明治42)年、寺内正毅陸軍大臣と、奥州市出身の斎藤実海軍大臣が国防に航空の重要性を認め、臨時軍用気球研究会を設置した。会長に陸軍の長岡外史少将、海軍から盛岡市出身で皇后陛下の曾祖父の山屋他人大佐、学識から二戸市出身で、盛岡の藩校に学んだ東大教授の田中舘愛橘が名を連ねた。

 大艦巨砲主義の時代。斎藤と山屋は海軍軍人として空に開眼したばかりだったが、愛橘はいち早く航空の可能性に目覚めていた。東京の第一高校でグライダーの試験飛行も行い、当時、校長の新渡戸稲造も立ち合った。

 愛橘は徳川、日野両大尉と欧州の航空事情を視察し、日本初の飛行場の造成を埼玉県所沢が適地と判断した。所沢飛行場では大正初年まで陸軍の飛行機と飛行船の試験を検分した。結果、気球と飛行船にはいち早く見切りを付け、飛行機の時代の到来を見抜いた。

 ■愛橘と東大航空研

 1914(大正3)年に第一次大戦が勃発。連合国の日本は中国の青島にドイツの要塞を攻め、日独両軍に飛行機が新兵器として登場した。

 1916(大正5)年度には愛橘が国会に働きかけ、当時の予算20万円を計上して深川に東京帝大航空研究所を設立。日本の航空技術の礎となった。

 研究所は物理、化学、冶金、材料、風洞、プロペラ、発動機など13部門から成り、軍だけではなく民間にも航空機の重要性を普及した。研究所は技術開発と空路開拓などに活用され、南部藩士の血筋にあたる木村秀政を、日本を代表する航空機設計者に育てた。やがて三菱と中島を双璧に日本の航空機産業は大発展する。

 愛橘は佐々木信綱に学んだ歌人でもあった。「富士の山 あおぎ見ればあま雲のたゆるあたりに飛行機の見ゆ」。盛岡中学時代の啄木の恩師、冨田小一郎とも交わった。

 太平洋戦争へと向かう時代。愛橘はジェット機の登場や核兵器の出現も予測した。大戦で、米国は日本の陸海軍機の高性能の前に苦戦し、その報復に占領下に航空禁止令を敷き、日独の航空機産業をつぶそうとした。

 日本は航空機の製造を6年間も禁じられ、世界水準に後塵(こうじん)を拝したが、木村は愛橘の薫陶を胸に国産旅客機YS―11生みの親となり、戦後の空には平和が戻った。



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