2021年
4月24日(土)

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船の絵に記憶と願い刻む 矢巾の菊池和弘さん 震災経験次世代に 故郷の宮古離れ 悔いないよういま描く

2021-03-08

自宅アトリエの制作中の絵の前で、震災時やその後の経験を振り返る菊池さん

 重なる何隻もの船に、大漁旗や壊れた漁具―。宮古市出身の元信用金庫職員で、宮古美術協会所属の自称「絵っこ描き」菊池和弘さん(69)=矢巾町南矢幅=が制作する大作の油絵は、山田町などの沿岸で描いた被災船のスケッチをもとにする。船体に赤で書かれた「OK」(「解体OK」の意味)などの印も再現し、静寂の中に深い情感を伝えている。(相原礼以奈)

 菊池さんは、勤めていた宮古信用金庫本店で震災を経験。同僚らと上階に避難し、市街地に押し寄せる津波を目の当たりにした。「津波がゴーっと入ってきて、押し流された建物が電柱にぶつかる。電柱がたまらず倒れると、電線がバシーンと切れる」。あまりの光景に言葉を失った。

 「だいたい30年おきに津波はきていて、十勝沖地震津波からは40年の間隔があった。前年にマツタケが大量発生し、もしかしたら大地震があるかもと思っていたが、こんな大津波がくるとは。夢じゃないか、夢であってほしいという気持ちになる。足をつねって、腕をつねってみて、やっぱり痛い。あぁ現実だなと思った」と振り返る。

 菊池さんは同市鍬ケ崎生まれ。宮古商高を卒業後、宮古信金に就職。幼少期から絵を描くことが好きで高校時代は美術部に所属し、40歳ころには宮古信金のシンボルマークのデザインも手掛けた。

 本来は2011年3月で定年退職を予定していたが、震災後の対応に当たることになり、13年3月まで勤務。家族は、次男が盛岡市の支援学校に通った関係で震災前から矢巾町に暮らし、菊池さんは宮古と矢巾を毎週行き来する生活だった。

 職場は店舗1階部分が約3㍍浸水したものの、同僚に犠牲者はなかった。菊池さんが震災の1年半前に購入した車は津波に浸かったが、その後、知人から譲ってもらった車で沿岸各地を写真で記録しながら巡った。


2012年1月、菊池さんが山田町で描いたスケッチの1枚


 当初は被災した建物や街の写真も撮ったが、「生活用品を撮るのは切なく、忍びない」と、子ども時代から絵に描いてきた船を主に撮るようになった。

 震災以後は父が亡くなり、母が手術を受け、妻も病気を抱えたため、宮古と矢巾を頻繁に行き来。19年に妻をみとり、その後は家族の将来を考え、宮古の実家を整理して売却した。現在は絵の教室で教えるために、月2回宮古へ通う。

 「これまで震災について考えることがあまりなかった。写真を撮って歩き、仕事や家族の病気もあって、忙しくしてきたことにも改めて気付く。あっという間に10年がたった」と菊池さん。

 12年に、高校からの絵の仲間で、長年切磋琢磨(せっさたくま)してきた友人が急逝した。譲り受けた遺品のキャンバスに描いた作品は岩手芸術祭美術展で、友人も生前受賞した奨励賞を受け、供養ができたと思った。

 若いころ、仕事や子どもの教育が忙しく、制作を15年ほど休んでいたとき、助言してくれた友人だった。「家族や友人、周りが欠けてきている中で、悔いのないよう、いま、描きためていきたいという気持ちになっている」と菊池さんは言う。

 移動途中にスケッチできる国道106号沿いの風景、古民家、ハヤチネウスユキソウなど多彩な対象を描くが、いま、目は改めて船に向かう。「震災の後に描いたスケッチをもとに。これを描いていけば、また新たな課題が出てくる」と探求は続く。

 「歴史的な震災だったから。全部は描けないが、船という角度から描いていきたい。人生あと残り少なくなってきたので、描けるうちに描かなきゃないという責任感が出てくる」と力を込める。

 元職場は震災当時とは顔触れが変わり、若い人が多く働く。菊池さんは今後起こりうる災害に備え、震災の経験を次世代に伝えたいとの思いも持つ。

 「10㍍の防潮堤でも、実際何㍍の津波に対応できるのか。がれきなどの関係で、10㍍を防げるわけではないとも言われる。そこを発表してほしい。10年だとまだ経験した人がいるが、これから20年、30年たつと忘れられてしまうのでは」と懸念。「内陸でも、川の洪水など、自分が住んでいる場所で考えられる災害に備えておくことが大切」と実感を込めた。



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