2021年
4月24日(土)

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あす東日本大震災から10年 経験・教訓語り継ぐ 盛岡市北飯岡の湊雅義さん 山田町で避難訓練していた… 「どうすれば」の自問いまもなお

2021-03-10

 東日本大震災から、11日で丸10年を迎える。最大震度7の大地震と三陸を襲った大津波で5145人(余震や関連死など含む、県まとめ)が犠牲になり、1111人が行方不明のまま。道路や区画整理などハード事業はかつてないスピードで進み、沿岸市町村の姿も大きく変わった。ソフト面の復興は現在進行形。その後も県内外で起きた地震や風水害の復旧復興・支援へ、震災の経験を通じて充実が図られた。多くの命を救い、助かった命を守るため、いかに教訓を語り継ぐかが問われている。

 盛岡市のSAVE IWATEの工房で木皮をなめしたクルミかご作りに取り組む湊雅義さん

 山田町北浜地区で自治会事務局、地区防災センター管理人を務めていた湊雅義さん(78)=盛岡市北飯岡=は、「避難訓練は実施していたが、どうすれば生かされたのか」と北浜地区への思いを寄せながら、内陸に移り住んで間もなく10年になる。「沿岸部の住宅再建が進み、盛岡の生活が落ち着いてきたこれからが、心の変化と向き合うことになるのではないか」と語る。

 東京都出身の湊さんは震災当時、自衛隊を定年退官後に引き受けた地区活動で、防災組織の見直しや年間防災計画に基づく避難訓練を進めていた。防災マップ作り、被災時に自分の所在を知らせる伝言方法や高齢者らの移動方法の確認など、山田町内でも力を入れている地区だった。

 防災センターで勤務中に地震が発生。訓練時から「高台に逃げることを最優先」にしていたが、家の中で亡くなっている人もいた。

 「実際には足が震えたのかもしれない。人を助けたいという思いがあっても、早い段階で動けなければ」と無念さをにじませる。「自宅に戻って、命を落とした人もいる。逃げたら戻らない。最終的に集まる避難場所を家族で確認しておくことも必要」と強調する。

 内陸の避難先だった雫石町内の温泉を出る際、山田の仮設住宅か、盛岡のアパート(みなし仮設)で生活するか悩んだが、義父母の通院などを考えて盛岡市内の一軒家を借りることにした。

 現在の自宅に転居する際、町内会の資源回収に協力したとして感謝状を贈られた。驚いたが地域の人たちの気持ちがうれしかった。

 7年ほど前から、クルミの木皮などを素材にしたかご作りに取り組んでいる。

 SAVE IWATE(盛岡市)が被災者のなりわいの一つとして始め、8人いる作り手の中でも最古参の一人になった。春から夏は材料集めのため山に入ることも多く、「気晴らしにもなる」と楽しむ。

 妻の和子さん(73)も刺しゅうを楽しみ、生徒も持っているが、沿岸部で高台移転が進むニュースに触れると、「山田を出てよかったのか」という思いも頭をもたげるという。

 「避難してきた当時はバタバタだったが、いまになって寂しさを抱えている人もいるかもしれない。被災者としてではなく、これからはその地域の住民としての触れ合いや交流が大切になってくるのではないか」と語る。



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