2021年
4月23日(金)

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復活蔵で看板ブランド確立 赤武酒造 新天地の盛岡で 若き杜氏を中心に 目指すは日本一の酒

2021-03-14

赤武酒造の杜氏、龍之介さん(左)と秀峰社長

 1896年創業の蔵元、赤武酒造(古舘秀峰社長)は、東日本大震災津波により、当時大槌町の中心部にあった酒蔵が全壊した。一時は廃業も視野に入れたが、多くの人の後押しを受け、2013年に盛岡市北飯岡1丁目に復活蔵を再建。現在は、秀峰社長(56)の長男で杜氏の龍之介さん(28)を中心に復活蔵で誕生させた、看板ブランド「AKABU」が多くの人に愛されている。秀峰社長は「あの震災では、多くの人があまりにも重いものを背負うことになった。当事者としたら、10年というのはこだわる数字ではない」と、この10年間を振り返る。(佐々木貴大)

 東日本大震災では、大槌町の中心部にあった酒蔵と自宅を失った。当時の主力日本酒「浜娘」の仕込みに必須である、巨大なタンクも破裂した。

 悲惨な光景を目の当たりにし、「事業の再開は、無理だ」と、秀峰社長の心は絶望に包まれた。盛岡市内の親戚宅に身を寄せながらも、気力がわかない日々を過ごしたという。「いま思えば、後始末さえも逃げていた」と当時の心境を振り返る。

 震災から2カ月ほどがたち、周囲に目を向けると、秀峰さんの周囲には、前向きに動き始める人々の姿があった。


被災直後の赤武酒造の様子。巨大なタンクも無残な姿に(同社提供)

 「自分も何か」と考えた秀峰さんは、盛岡市の新事業創出支援センター(M―TEC)でリキュールづくりを開始。併せて、イベントなどでの販売なども精力的に行うようになった。

 リキュールの製造、販売を行う中で、「どうしても浜娘を作りたい」という思いが強まった秀峰さん。桜顔酒造(盛岡市)が「一緒に酒造りをやるという形でなら」と手を差し伸べた。「桜顔の職人さんはよそ者と扱ってくれなかった。一人の力では何もできなかった」と感謝を語る。

 こうして、2011年も代表銘柄「浜娘」は途切れることなく、市場に流通した。

 その後、グループ補助金を活用し、復活蔵が13年夏に完成させた。自前の蔵での酒造りが始まった。

 しかし、蔵ができても苦難の道が続いた。

 盛岡市内の居酒屋や酒屋に営業をかけたが、なかなか「リピート」がなく、単発の購入ばかり。「被災をネタに営業しているとまで言われた」と秀峰さんは思い返す。

 苦境を抜け出すため、東京への進出を決意。売り込みの一方で、日本酒市場を徹底的に調べ、蔵の方向性を定めようとしていた。

 そんな中、14年4月に長男の龍之介さんが東京農大を卒業。「自分の好きな酒を造りたい」と、赤武酒造で働くことを希望した。

 他の酒蔵で2カ月、酒類総合研究所で2カ月修業し、復活蔵に戻った龍之介さんの手には、研修で造った日本酒。この日本酒が、その後の赤武酒造の運命を変えた。

 この日本酒は、秀峰さんをして「なかなかだな」という出来だった。市場調査で特徴のある酒、秀峰さん曰く「とがった酒」が必要だと考えていたこともあり、龍之介さんに杜氏として新しいブランドの立ち上げが託された。

 基本に忠実に酒造りを進めた龍之介さんと職人の手により、新ブランド「AKABU」が、14年12月に完成した。1年間を通じた酒造りを経験した龍之介さんは2年目以降、酒造りの手順の見直しも進め、それとともに酒の質も向上。売れ行きは徐々に上がり、名実ともに赤武酒造の看板ブランドまで成長した。

 秀峰さんは「酒屋さんがね、2年目以降のAKABUを『化けたな』って、褒めてくれたんですよ」と、息子の成長を誇らしげに語る。

 さまざまな出来事を経験し、ようやく軌道に乗りつつある赤武酒造。秀峰さんは「多くの人の力を借りた。一人だけでは、ここまでできなかった」と被災からの10年間を振り返る。

 内陸からの支援についても「自分のことのように、熱意をもって支援を続ける人が多かった」と話す。「いただいた支援に報いるためにも、私たちは独り立ちしなければいけない」と決意を示した。

 現在は、かつての主力商品「浜娘」の酒質改善にも取り組む。

 「それ(浜娘の酒質改善)が終わったら、蔵を若い人に任せようかな」と、笑顔で次世代の飛躍を願う秀峰社長。

 龍之介さんが今後の目標を「これからもおいしいお酒を造り続けたい」と決意を語ると、秀峰社長が「造るのは日本一の酒だろ」と上方修正。笑顔が絶えない復活蔵から、今後もおいしい日本酒が生まれ続ける。



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