2021年
4月23日(金)

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<高く飛べるを・2~岩手もりおか航空史>空の先覚者の2県人 第一次大戦をドイツと 陸軍の長澤、海軍の上野

2021-03-29

 日本は1914(大正3)年、第1次世界大戦に連合国側から参戦し、中国山東省の青島を租借していたドイツ要塞を攻略した。わが国はこの戦いで本格的な空の時代を迎える。陸海軍がフランス製「ファルマン」機で爆撃を行い、岩手県人が重要な役割を果たした。陸軍の長澤賢二郎(1885―1965)=盛岡市出身と、海軍の上野敬三(1891―1985)=雫石町出身。空の先覚者として航空隊を養成した2人には、石川啄木との奇遇があった。歌人が詠嘆した蒼空に、やがて日米の死闘が待ち受ける。陸海の将帥として太平洋の落日を見届けたのち、兵を語ることはなかった。
(鎌田大介)=毎月1回連載します。

 ■啄木と長澤と上野

 長澤は盛岡中学で啄木と同級。素養団をつくるほどのバンカラで啄木とはそりがあわず、後輩に歌人の文弱を嘆いてみせた。

横廠式に搭乗した上野敬三(老提督人生こぼれ話より)

 上野は兄の廣一が洋画家で啄木の同窓。婚姻の媒酌人をするほど親しかったが、啄木に式をすっぽかされ絶交した。原敬の支援でパリに留学し、肖像画家として大成した。敬三は廣一の2番目の弟。

 ■長澤と青島攻略

 長澤は陸軍航空隊の養成を通じて日本の空を開拓した。陸軍士官学校卒後、工兵少尉に任官。1912(明治45)年、飛行練習生として渡仏し徳川好敏、日野熊蔵両大尉らと共に初めて操縦桿を握る。最新型の「モーリス・ファルマン」1機を購入して帰国。1時間80マイルの飛行記録を打ち立てるなど、操縦法の確立に身を張った。

 青島攻略では有川鷹一工兵中佐を隊長に、長澤中尉はファルマンなど5機の臨時航空隊を編成して参戦。徳川大尉らと共に戦い、ドイツ機「タウベ」との間で日本初の空戦に臨んだ。互いに操縦席から小さな爆弾を投げつける程度で、神経戦の域を出なかった。

 ドイツ要塞は主に陸戦で陥落した。帰還した長澤は1915(大正4)年の陸軍大演習に際して盛岡市の観武ケ原に飛来し、ファルマン機を市民に披露した。大正から昭和にかけて陸軍航空隊の発展にあたり、機上から初の打電に成功。所沢、熊谷、明野の陸軍飛行学校長を務め、少将。敗戦を経て死去した。

 ■上野と日本の空母

 上野敬三は盛岡中学校卒、海軍兵学校へ。少尉候補生として青島攻略に出征した。海防艦「沖島」に乗り組み、機雷掃海をしていてドイツ機の攻撃を受けた。そこに海軍初の水上機母艦「若宮」が入港し、「アンリ・ファルマン」機を発進。上野は水上機基地の造成に従事し、要塞爆撃を支援した。

 翼と出合った上野は飛行術学生を志願した。カズホ夫人の聞き書き「老提督人生こぼればなし」によると、「アンドン飛行機と言って、操縦者と指導官の二席があるだけであとは骨組みのみで、翼と尾翼があるだけの飛行機であった。15分くらい乗って帰ってくると、遅すぎるじゃないかと怒られる位、僅かな時間しか乗れず、次々と並んで学生が待っている状態であった。操縦者のすぐ後の手の届く所に指導官が乗っていて、大声で叱ったり、頭をこずいたり、なぐったりの指導であった」。

 すべてが手探り。教練中に墜落事故が相次ぎ、上野が葬儀委員を引き受けるほど。その後、横須賀海軍工廠で設計した国産機が生産されるようになり、霞ケ浦航空隊での初の講習を受けた。

 1917(大正6)年に中尉として搭乗員。1920(大正9)年にはシベリア出兵で、パルチザン戦に出撃した。日露戦争の旗艦「三笠」に飛行機を搭載し、沿海州の空を舞った。やがて横廠式航空機で九州から沖縄、台湾まで日本人初の飛行に成功した。

 1922(大正11)年に日本初の空母「鳳翔」が就役し、上野は初代飛行長。1928(昭和3)年に少佐として欧米視察。フランス空母「ベアルン」の情報を収集し、飛行甲板の横張りワイヤー式の着艦制動索を空母「加賀」設備のため買い付けた。その後は山本五十六らと海軍航空の指導陣となり岸信介の兄の佐藤市郎のもと、航空本部教育選任部員を務めた。

 1931(昭和6)年には空母「赤城」飛行長。1936(昭和11)年に水上機母艦「能登呂」艦長。1938(昭和13)年に空母「蒼龍」艦長。大分航空隊司令。太平洋戦争中は航空戦隊を率いてラバウルに進出し、山本五十六の戦死を見送った。第61航空戦隊司令官としてペリリューに赴き、上野が去ってから島は玉砕した。

 内地では中将として名古屋の航空機工場の防空対策にあたり、終戦。戦後は「三笠」の記念艦化に尽力した。

 雫石町で「中将さん」と慕われつつ、晴耕雨読の晩年。現役の頃は特攻に一貫して反対し続けたが、終生それを黙したままに没した。



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