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忘れられない31年前の激闘 準々決勝 麻生一関VS一関商工 夏の高校野球岩手大会 6時間半超えた一戦 再試合も「延長?」現実に

2021-07-14

延長18回引き分けとなった麻生一関対一関商工の一戦を伝える1990年7月25日付の盛岡タイムス

 第103回全国高校野球選手権岩手大会の熱戦が続いている。昨年は新型コロナウイルス感染症の影響で中止となり、代替大会が開かれた。甲子園につながる県大会は2年ぶりとあって、試合に臨む選手たちの思いもひとしおだ。力を振り絞って戦う球児たちの姿をみていると、必ず頭に浮かんでくる試合がある。31年前の夏。第72回大会の麻生一関(現一関修紅)対一関商工(現一関学院)の一戦だ。準々決勝で、両チームは延長18回引き分け、翌日の再試合でも延長戦に入る激闘を繰り広げた。=文中敬称略(土樋靖人)

 1990(平成2)年7月24日。私は盛岡タイムスの記者として、盛岡市三ツ割の県営野球場にいた。当時、岩手大会の準々決勝4試合はすべて、同球場で行われていた。

 「プレーボール」のコールは、午前8時22分に上がった。このとき、試合が2日間にわたり、6時間半を超える激闘になると、誰が想像していただろう。

 同じ地区の両校。火花は試合前から、散っていた。新チームになって、両校はそれまで2度対戦していた。秋季地区予選では商工が麻生を、春季地区予選では麻生が商工を下していた。

 昭和の名残があったころ。練習も激しかった。丘の上にあった商工の野球練習場には照明設備が整っていて、夜になると、麻生の練習グラウンドからその照明が見えた。当時の麻生の伊東純主将は「商工の照明が消えるまで練習をやるんだ」と気持ちを奮い立たせ、ボールを追っていた。

 試合は、商工が2度リードし、麻生が追いつくという展開で、延長戦に突入した。

 その直前の九回裏2死。商工のエース、中村修一は、二塁ベース上にいた。ここで、三浦勝利が中前打。中村は、コーチャーの指示で三塁に止まったが、「本塁に突入していたら…」。送球がそれていたので、中村がホームベースを踏んでいれば、サヨナラ勝ち。歴史的一戦はなかったかもしれない。

 延長に入っても、麻生の岩沼慶晴、商工の中村の投げ合いは続いた。十回以降に打たれたヒットはそれぞれ3本、4本だった。十八回まで0が続き、2対2で引き分け、再試合に。18イニングを投げ抜いた岩沼は「まだいける感じだった」。試合終了時間は午後0時24分。所要時間は4時間2分だった。

 再試合は25日午前9時50分に始まった。麻生が三回表に3点を挙げると、商工はその裏に1点、四回裏に2点を返し、同点に。そのまま、こう着状態に入った。

 六回だったか、七回だったか。記者室で、誰かが「このまま、きょうも延長に入ったりして」と冗談を言った。それがいざ現実となると、重い空気に。そんな中、スポーツ紙の記者が「こんないいゲームを、なぜ岩手の人は見に来ないのだ」と怒りにも似た叫びを上げた。

 この日は、平日の水曜日。しかも、盛岡とは離れた一関地区の、私立校同士のカード。まだ公立高が幅をきかせていた時代だったから、観戦者も少なかったのだろう。

■ 記者やカメラマンも泣いた 「最高の試合できた」 敗れた商工の元エース 17年後に振り返って


決着がついた再試合の様子を伝える1990年7月26日付の盛岡タイムス

 再試合で、麻生の先発は、前日完投した岩沼ではなく、左翼手だった小原一喜。この大会で初めての登板だった。

 一方、商工は前日に引き続き、菅原悟を立てた。しかし、三回につかまり、中村が救援のマウンドに立った。中村は前日も七回途中からリリーフで投げていた。

 実は、中村はひじを傷めていた。関節面から骨や軟骨などの小片が?がれ、関節内を動き回る、いわゆる「関節ねずみ」というやつだ。5月半ばにその症状が出て、直前の東海大山形との練習試合で投げただけで、岩手大会に臨んでいた。

 その中村が延長十二回表につかまった。2本の安打と四球で1死満塁。ここで、麻生の3番、阿部義喜が中越えに走者一掃の二塁打を放った。その裏、商工は三者凡退。試合終了時間は午後0時29分。所要時間は2時間39分。2日間で6時間41分の戦いだった。

 こういうとき、記者たちはまず、敗者のもとに駆け付ける。しかし、このとき、商工のベンチに行っても、少し遠巻きのまま。なかなか声をかけられない。選手たちはもとより、沼田尚志監督の目にも涙。記者やカメラマンも泣いていた。

 先に球場を去ろうとしていた麻生の斉藤彰監督も、記者たちの取材で足止めされた。取材は県営野球場の正面玄関でも続いた。そこに沼田が現れ、2人は抱き合い、健闘をたたえ合った。斉藤は「勝負だから(勝ち負けがあるのは)仕方ない」と沼田を慰めた。

 盛岡タイムスは、盛岡市とその周辺をカバーする地域紙だ。従って、一関同士の試合はフォローしないか、触れても「小さく」が普通だ。しかし、このときはさすがに、大きく見出しを取り、記者コラムも載せた。

 翌年、東京に本社がある全国紙に移籍してからも、自分にとっては野球の、いやスポーツの「ベストゲーム」として心に残った。そして、あのときの選手たち、監督はどうしているのだろうと、ずっと気になっていた。

 2002(平成14)年、盛岡支社へ異動して、06年に支局長となって、時間的余裕もできた同年の冬から約半年、元選手たち5人、両校の監督、再試合の球審、記録係の元野球部の監督、中村の両親ら13人を、北は青森、南は埼玉まで訪ね歩いた。その結果を、07年の6月から7月にかけて、同紙東北面で「攻防30回 17年前の長い夏」として8回連載した。

 コロナ禍の中、全国の球児たちはいま、甲子園を目指して戦っている。「一発勝負」のトーナメント戦。3年生にとってはほとんど、負ければ高校野球生活が終わる、ヒリヒリとした瞬間が続く。

 中村は言った。「最高の仲間たち、最高のライバルと、最高の試合ができた。一生忘れることはない」と。そう胸を張れるような試合を、奮戦中の選手たちにはしてほしいと願う。



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