2021年
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澄んだ大空でなぜ起きた 全日空機・自衛隊機 衝突事故から50年(上) 乗客ら162人が犠牲に 凄惨を極めた捜索現場

2021-07-27

2019年に新設された航空安全祈念の塔

 雲一つない雫石町の空に降ったのは雨ではなく、いくつかの鉄塊、太陽に反射し散る無数の金属片、それと―。全日空機と自衛隊機が同町の上空約8500㍍で衝突し、乗客乗員162人が犠牲となった「全日空機雫石衝突事故」が起きてから、30日で50年がたつ。当時の惨劇を風化させないよう、遺族や関係団体、自治体による取り組みが、現在も続いている。だが、経年とともに当時を知る人々は確かに数を減らしている。何があったか。いま一度、雫石の空を振り返る。(川坂伊吹)

 ■衝突、とどろいた衝撃音

 1971(昭和46)年7月30日。梅雨明けの快晴、盛岡地方気象台は正午に気温30・3度を観測する、暑い日だった。

 午後1時33分、千歳発羽田行きの全日空機58便(ボーイング727―200型ジェット旅客機)が滑走路を離陸。民間用の航路「ジェットルートJ11L」を飛行した。搭乗者は乗客155人、乗員7人の計162人。うち125人は静岡県富士市の市民。北海道旅行の帰路だった。

 一方、同28分、航空自衛隊第一航空団松島派遣隊所属のF―86F戦闘機2機が、基地飛行場を飛び立った。編隊飛行訓練のために、訓練生と教官がそれぞれ搭乗。訓練空域はJ11Lに隣接する、事故当日に上官が臨時で設定したものだった。

 推定衝突時刻は午後2時2分39秒ごろ。雫石駅から北に約3㌔の付近。高度約8500㍍で、全日空機と訓練生の機体が衝突した。全日空機は尾翼を失い、操縦不能に。落下中急加速し、約4600㍍付近で機体は空中分解した。この際に発生したとみられるソニックブームの大音響は盛岡市中心部までとどろいた。

 訓練生の機体も右主翼を損壊し、きりもみ状態に。訓練生は辛うじて自力で脱出、パラシュートで駅付近の田んぼに落下した。

 ■遺体発見、騒然

 間もない午後2時15分ごろ、テレビで「全日空機と戦闘機が墜落」との速報が流れ、町は騒然となった。情報が錯綜(さくそう)する中、同3時15分ごろ、「岩名目沢で14遺体発見」との無線連絡が入った。町民が発見したのだった。


衝突事故の惨事の様子を伝える1971年7月31日の盛岡タイムス(部分修正しています)

 捜索には、県警、消防団、自衛隊など約4千人が動員された。現場の山林は凄惨(せいさん)を極めた。県警の事件概要には「ほとんどの遺体は全裸体で頭蓋骨を含む全身骨折、内蔵破裂、上下肢離断し、性別さえ不明の者が多かった」と記されている。

 遺体は、現地対策本部が設置された安庭小の講堂に次々運び込まれた。医師団は大小不ぞろいでも、ばらばらの四肢を縫い合わせ、対面に備えた。同日夜には、特別便で遺族の第一陣が到着。ただただ悲嘆に暮れた。

 事故発生から24時間後の31日午後2時すぎに、全遺体が発見された。損傷の激しさから、遺体の取り違えが5組7体発生するトラブルもあったが、8月6日までに全ての遺体が肉親のもとに帰った。

 ■調査を経て航空法改正へ

 未曽有の大惨事となった墜落事故。政府は事故調査委員会を設置して、原因究明を急いだ。翌72年7月公表の報告書では、各操縦者の発見や回避の遅れとともに、「教官が訓練空域を逸脱してジェットルートに入ったことに気づかず、訓練を続行した」ことが第一の事故原因と結論付けられた。

 当時、旅客需要の増加による「空の過密」、ジェット機登場以前のままの航空管制、自衛隊訓練空域と民間機の空域の未分離など、航空行政の遅れが問題視されていた。報告書では「勧告」として、法整備など早急な対応も求められた。

 75年6月には、航空法の改正が参議院で可決成立、同年10月に施行された。航空管制空域における訓練飛行の原則禁止、見張りの義務化など、運航ルールが厳格化された。レーダー管制の整備も加速。事故は日本の空の転換点となった。

 ◇安全への思いは強く 悲劇乗り越え交流始まる

 ■責任

 世論は自衛隊の責任追及に傾き、時の防衛庁長官と航空幕僚長の引責辞任に発展。教官と訓練生は業務上過失致死、航空法違反の容疑で逮捕起訴された。

 訓練生は、78年5月の2審判決で「訓練生でジェットルートの知識もなく、全日空機も視野の外だった」として無罪が確定。

 教官は、83年9月の上告審で見張り義務違反が認定されたが「教官1人に刑事責任を負わせるのは過酷」として、2審を減刑する形で禁錮3年執行猶予3年の判決が下された。

 国、全日空、損害保険会社による損害賠償を争う民事裁判は89(平成元)年5月、過失責任を国2、全日空1とする控訴審判決が確定した。

 ■慰霊と安全への思い、生まれた交流

 事故翌年7月30日、多くの遺体が見つかった岩名目の山林に慰霊碑が立ち、第1回慰霊祭が営まれた。75年は、慰霊堂、旧航空安全祈念の塔などを設置。現在に続く園地「慰霊の森」が整備された。

 毎年の慰霊祭は遺族の高齢化などで、2003年の三十三回忌が最後となったが、以後も献花・礼拝行事が続いている。

 五十回忌を翌年に控える19年11月には、大規模改修が竣工。老朽化した航空安全祈念の塔が新たに建て替えられた。富士山を表す3本の石柱と、岩手山を表す14本の短い石柱から成り、塔の正面に立つと富士山を向くよう設置された。

 20年5月には「慰霊の森」から「森のしずく公園」へと園地が改称された。

 献花・礼拝には、全日空関係者も毎年参加する。多くのグループ社員も、労組の研修などで現地を訪れる。

 また、東京都大田区の総合トレーニングセンター「ANA Blue Base」内には当時の残骸などが展示され、安全教育に活用されている。雫石事故から現在まで、全日空機による乗客死亡事故は発生していない。

 市民125人が犠牲となった静岡県富士市。事故を機に、雫石町との交流も生まれた。三十三回忌の翌04年からは、両市町の児童が相互訪問する交流事業が開始。新型コロナ禍で20年度は中止されたが、延べ600人ほどが参加し、記憶と縁を紡いでいる。

 13年には、友好都市と災害時相互応援協定も締結。同年発生した雫石豪雨災害後の復興支援として、市職員が派遣された。

 猿子恵久町長は「今年は富士市の子どもが雫石に来る。悲惨な事故だが、亡くなった方々に報いるような活動を続けたい」と話す。



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