2021年
9月20日(月)

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確かにあった白衣の前線 盛岡からも従軍看護婦 武漢へ 広島へ 傷病、原爆くぐり抜け 博愛の心コロナ禍のいまも

2021-08-12

北京陸軍兵站病院を描いた「岩手班の活躍」

 今年は太平洋戦争開戦から80年。そこに白衣の前線があった。盛岡市から従軍看護婦が中国の武漢へ、原爆投下の広島へ。修羅のちまた赤十字のしるしに使命をささげた。「湖北の空 長江の流れ」「手向けの華」の記録をめくった。世界のコロナ禍のもと、岩手の後進が博愛の心を受け継ぐ。手記を残した先輩を知る県看護連盟前会長の山下キヌさん(79)は「コロナの長期化で、看護の現場は疲弊しているが、いまこそ歴史を知る場を。多くの先輩の体験をくぐり抜けて、いまの世がある」と話し、平和への願いを新たにする。(鎌田大介)

 ■中国戦線の武漢へ

 日中戦争下の1938(昭和13)年。漢口、漢陽、武昌から成る武漢三鎮が日本軍に占領された。ここに盛岡市から1943(昭和18)年4月、日本赤十字社第444救護班が派遣された。

 南部初巳婦長ら24人が広島市宇品から上海に渡り、5月7日に漢口着。野戦予備病院に勤務して常徳作戦などの傷病兵らを手当てした。

 翌年12月には漢口第2陸軍病院に転勤し、終戦後の1946(昭和21)年6月まで現場にあった。

 そのころには連合国の支援で中国軍の装備や士気は充実し、戦線に暗雲が漂った。衛生状態は劣悪で、多くの将兵が疫病に倒れた。「湖北の空 長江の流れ」に、花巻市の阿部キエさんの体験がある。

 「内科の入院患者の大半は赤痢だったが、腸チフス、コレラ患者も多数いた。この重症病棟の近くにある弾薬庫が或る夜空襲を受けて大爆発した。その夜の当直は柳沼軍医殿と看護婦2名の組み合わせであった。大爆発と同時に武昌の夜空が真赤にそまった」。

 被害は病院にも及び、大勢の患者が巻き添え。誘爆した催涙ガスが立ちこめる。

 「あの時は患者さんと共に死んでもいいと本当にそう思った。ガラスの破片が飛んでくると、無意識の中に避けながら不思議に恐ろしさを感じなかった。突然どこからともなく軍医殿の大きな声がした。『コラッ、お前達、軍人ではないか、なんだその泣きごとは、看護婦に恥ずかしくないか』」。

 爆風でベッドから落ちた患者を抱き起こすと、すでに息絶えていた。「催涙ガスによる涙と、悲しみの涙が一緒になってどうすることもできなかった」。

 多くは10代の看護婦たち。過酷のうちにも忘れがたい青春があった。慰安所に携える兵士たちの携行品を風船と間違えて、病院に大目玉をくらったこと。日本軍側で働いた現地の看護婦らを「中華さん」と呼んで友情と信頼を築き、白衣の連帯で助け合ったこと。

 終戦後は医療のため残留するよう中国側に要請されたが、多くの傷病兵とともに、混乱のうちに復員した。3年あまりの間に、看護婦長1人と看護婦1人が戦病死した。

 ■広島の陸軍病院へ

 第444救護班が大陸に苦闘する大戦末期の1944(昭和19)年8月、盛岡市から臨時第8救護班が広島県の陸軍病院大野分院に派遣された。

 県看護協会会長を務めた成澤良子婦長ら県人8人。ほどなくB29による空襲が始まり、東京、大阪、名古屋が焦土と化す中、軍都の広島市は、終戦直前まで大きな被害を免れていた。

 しかし、1945(昭和20)年8月6日、病院の職員と患者たちはピカドンを目撃する。爆心点から距離があり、熱線や放射能は免れたが、恐ろしい風圧が建物を揺るがした。巨大なキノコ雲をぼうぜんと見上げるうち、火の海が市街に広がった。

 翌日からは野戦病院、もしくはそれを凌ぐすさまじさ。市内から続々と負傷者が運び込まれた。医師や衛生兵や看護婦を、入院中の傷病兵も総出で手伝い、決死の救援が始まった。

 「手向けの華」には「全身の火傷や、爆風によって倒壊した建物の下敷きによって受けた外傷が激しかった。人間の生体がずたずたに損傷を受け、ぼろぼろに破壊される、残酷無比の大虐殺。この人間として許されるはずもない大罪に、私は戦慄し、怒りで髪の毛が逆立つ思いであった。この凄絶極まりない修羅場では、全くなすすべはなく、医療も看護も無力に等しかった」。

 死闘の果て、復員列車で盛岡市に帰り着いた9月15日。それから2日後の17日、廃虚の広島に枕崎台風が上陸して山津波が大野分院を襲い、原爆を生き延びた命をものみ込んだ。

 戦後は岩手の保健医療を指導しつつ、生きているだけで感謝と悔悟がこみ上げ、救えなかった広島市民に手を合わせ続けた。

 盛岡市の日本赤十字社県支部には「岩手班の活躍」という大きな油彩がある。作者は不詳だが、成澤婦長が最初に召集された北京の病院の1938年の現場を描いている。



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