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「八月のあの日」三訂版を出版 盛岡市上米内の箱石邦夫さん 釜石高女の集団疎開の体験つづる 「険しい山越えの事実知って」 引率した歌人 大西民子の作品など新たに収録

2021-09-10

 釜石高女の集団疎開の体験記「八月のあの日 乙女たちの仙人越え」の三訂版を自費出版した箱石邦夫さん

 盛岡市上米内の元高校教員、箱石邦夫さん(80)は、太平洋戦争末期の釜石市への艦砲射撃で起こった旧制釜石高等女学校(釜石南高―現・釜石高)の集団疎開の体験記「八月のあの日 乙女たちの仙人越え~釜石高等女学校の集団疎開 若者たちへのメッセージ~」の三訂版を自費出版した。2016年以来、5年ぶりの改訂。手紙形式でつづられる当時の生徒たちの手記に加え、今回新たに教員として生徒たちを引率した盛岡市出身の菅野民子(結婚後に大西民子、歌人、1924~94)の作品や文章を新たに収録した。同校が初任校だった若い教師の視点を加えることで、日常を奪われた戦時下の実相が浮かび上がった。

 箱石さんは、「機銃掃射の弾丸におびえながら、女性たちだけで険しい仙人峠を越えた体験。生徒を引率した菅野民子の存在とともに、その事実を多くの人に知ってもらいたい」と話す。

 本冊子は52通の手紙を軸に構成し、「特別掲載 菅野民子先生の引率記 大西民子の作品より」として収録した。

 「花溢れゐき」(短歌研究社、1971年)によると、大西民子は「遠き夜の記憶のなかに立ちそそる照明弾の下の樫の木」の一首に寄せ、「私たちは二十何キロかの道を敵機が来るたびに木陰に待機しながら歩きつづけ、けわしい仙人峠をよじ登ってようやく夕方、遠野の町にたどりつき、数日後にそこで数戦を迎えた」と述懐。「この百五十人の子供達を助けるためなら、私一人ぐらいどうなってもいいと、歩き続けた日が忘れられない」と心情を述べている。

 製鉄所のある釜石市は、45(昭和20)年の7月と8月、連合軍による2度の艦砲射撃を受け、市街地も甚大な被害を受けた。釜石高女の1~3年生が遠野市に集団疎開をしたのは、8月9日に2度目の艦砲射撃を受けた後。海抜887㍍にあり難所の多い仙人峠を、ほぼ女性だけで越えたとされる。

 「八月のあの日 乙女たちの仙人越え」に収録の手紙は、文化祭の展示発表を企画した当時の釜石南高の生徒の依頼に応じ、釜石高女の先輩たちが返信の形で体験を書いたもの。98年に釜石南高に赴任した箱石さんが生徒に提案した。その後も調査を継続し、2016年8月に一冊にまとめて初版、同9月に改訂版を出版した。

 箱石さんは、生徒を引率した菅野民子についても心に置いていた。大西民子の歌碑がある盛岡市の「上の橋緑地」で5月に開かれている「碑前祭」で、民子が創刊に関わった歌誌「波濤」編集責任者の真鍋正男さん(横浜市)と知り合い、釜石高女時代に関わる作品と文章のコピーを提供してもらったことが増補のきっかけとなった。

 大西民子が戦後に暮らした埼玉県のさいたま市立中央図書館、同大宮図書館の協力を得、著作権使用申請などを経て三訂版に収めることができた。

 箱石さんは「大西民子は出身地の盛岡と同じくらい、釜石・三陸への思いは強かったのでは。それぞれの地域の方に関心を持ってもらえればうれしい」と話す。

 三訂版では、釜石高女卒業生の手紙を新たに2通追加したほか、元アメリカ海軍着弾観測員の故ベン・スパークスさん(初版に手紙を収録)とのその後の交流についても書き記している。

 A4判、120㌻。残部わずかだが、希望者には1千円(送料310円)で郵送もしている。問い合わせは、箱石さん(電話019―662―4104)。



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