2021年
11月27日(土)

全文を読む

平民宰相への道の出発点 能吏清岡等と一騎打ち 序盤劣勢、下馬評くつがえす 原敬の総選挙(明治35年)

2021-11-03

 選挙の前年、大阪北浜銀行頭取時代の原敬(原敬記念館提供)

 4日は原敬の命日。清岡等(1863―1923)と対決した1902(明治35)年衆院選は、盛岡初の一騎打ちの激戦だった。市長を務め地域代表的候補だった清岡に対して、原は明確に政党政治家を標榜し、市民の参政を渙発(かんぱつ)した。その後は無競争で衆院に7期議席を占め、総理への道を歩んだ。この時代、市部の盛岡は定数1の小選挙区、それ以外の県内郡部は定数5の大選挙区。納税額基準の制限選挙で有権者は一握りだった。大正デモクラシーを経て、衆院は昭和の普通選挙を実現し、戦後の中選挙区から小選挙区比例代表並立制へ。くしくも平民宰相の没後100年の秋。第100代総理に国民の審判があった。(鎌田大介)


清岡等(盛岡市先人記念館提供)

 ■清岡と盛岡政界
 明治中期の盛岡市では、「北上派」と呼ばれる実業家グループに主導権があった。渋沢栄一の義兄の尾高惇忠が第一国立銀行盛岡支店長として赴任し、地元財界に近代経済を伝授するうちに形成された。舟運の北上廻漕会社を中心に集まり、派閥化する。

 清岡は盛岡市出身。秋田高校の前身の太平学校卒業後、1882(明治15)年、岩手県庁入り。1894(明治27)年から盛岡市長。能吏として北上派の信望を集めた。

 1890(明治23)年には東北本線が開通し、盛岡駅を起点に支線を伸ばす構想がいくつかあった。北上派も舟運から鉄道に関心を移し、清岡が市政から国政に転じ、県勢発展を担うよう期待が高まっていた。

 一方、原は伊藤博文によって設立された立憲政友会幹部として、出身地に党の地盤を求めた。そこで清岡の声望を評価し、1901(明治34)年、入党を勧誘する。

 清岡側も東北初の閣僚となった原には敬意を払い、判断は一致するかに見えたが、清岡は翌年、北上派の意向に従って入党を断る。

 北上派にとって、原は郷関を出て東京人となった政治家で、地元の利益代表たりえないとの判断があった。中央政界は依然遠く、政党政治への理解も浅かった。


 1918(大正7)年の岩手県補欠選挙など原にまつわる書簡(百萬堂の県作家作品展に展示)

 ■原の決断
 やむをえず、原は盛岡市に党の議席を確保せんと、みずから出馬の決意を固める。第4次伊藤内閣で逓信大臣を務め、名声は広まっていたが、長く盛岡を離れ地盤はない。

 しかし、既に政友会入りしていた盛岡市の鵜飼節郎(1856│1931)が参謀格になり、かつての自由民権派が支援者となっていく。

 清岡と北上派に政友会入りの脈なしとみた原は、正式に立憲政友会岩手県支部を発足する。ここに北上派に反発していた新興勢力も加わり、選挙に向けた原の支持母体が生まれる。

 政争を嫌う盛岡市内の有力者が、清岡を盛岡選挙区から、原を郡部選挙区に住み分ける工作もあったが、原は党勢拡大にあくまで盛岡からの出馬にこだわった。

 ■選挙戦に突入
 1900(明治33)年の選挙法改正により、一票の納税額が15円から10円に引き下げられ、有権者は拡大した。それでも総人口の2・2%に過ぎず、盛岡市内では301人だった。

 1902年、改正後初の第7回総選挙。任期満了に伴い4月21日公示、8月10日投票。現在よりはるかに長い日程だった。市長を辞して出馬した清岡と原の対決。ときに清岡38歳、原46歳。

 有力者が二手に分かれて各所で口論し、争って戸別訪問したため、盛岡市内は騒然となった。

 清岡陣営は、原が愛郷心に欠けると非難した。しかし、原の人物と政策が市民に浸透するにつれ、財界では中立派の小野慶蔵が支持に就くなど、次第に戦いは伯仲した。

 清岡はお城を中心とした旧市街、原は出身の本宮に近い仙北町など、周縁部で支持を拡大した。

 清岡の支持者を原が日に日に切り崩し、事前の下馬評をくつがえし、原175票、清岡95票、無効2票、棄権29票。原が大勝した。

 投票日直前の8月9日、清岡の日記には、「競争激甚此夜市中行人ノ往来、人力車自転車ノ奔走織ルカ如シ」とあり、当時の選挙戦の喧噪(けんそう)を伝える。

 開票結果がすべて明らかになった15日の原の日記には、「昨日反対派より、大矢馬太郎平野常次郎来り、今日まで反対せしも当選の今日に於ては市の代表者たるが故に之を祝し且つ将来をも御依頼致したしとの趣旨を述ぶる」。

 原の老獪に清岡はのみ込まれ、素早い手打ちで盛岡は政友会の強固な地盤となった。



前の画面に戻る

過去のトピックス