■ 〈都市の鼓動〉3 中村正 地球規模ではなく一人にとって実感できる環境を
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「カラスの鳴かない日はあっても、テレビなどマスメディアで環境問題・自然にかかわることが取り上げられない日はない」と言われて久しい。
環境問題・自然のことを語れなくして、教養人と自認することは今やはばかられるそうだ。
古くから環境問題・自然保護の問題にかかわってきたものとしては「こうした時代になるなんて」と含み笑いを禁じ得ない。反面「ネコも杓子(しゃくし)もいっぱしの専門家気取りに語れる」といった風潮には、いささか戸惑いを覚えることも間々あったりする。
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中津川と建物 |
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最近「地球規模で考え、地域レベルで行動することが大切です」といった呼びかけをしばしば見聞きする。
標語としてはうまくできていると思える反面「環境とは?と深く考えてのことかな」といった疑問もあり、違和感と危うさを覚える。
斜に構えたふりをして読み換えると「実感(認識)出来ない地球規模─教えられた情報レベル─指図された中─で考え、実感(認識)できる範疇(はんちゅう)─やれるレベル─で、そこそこ実践しましょう」となる。
斜に構えたふりをする根拠は?と思われた方々に、少し堅いが、生物系の本を紹介させていただく。
19〜20世紀の生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(ドイツ人、エストニア1864〜1944動物行動学)の提唱した概念を著わした『生物から見た世界=動物と人間の環世界への散歩』(ゲオルク・フリサート著)という本である(文庫本あり)。
彼の主唱したのは“環世界(UMWELT)”という概念。
複数の動物が「物理的に同じ空間に居たとしても、それぞれ異なる知覚、時空を持っている(認識が異なる)」と規定し、これを『環世界』と名付けた。(環世界はそれぞれにとっての環境と理解してかまわない)
環世界とは、私たちが通常、客観的に存在していると仮定している“環境”から区別された「それぞれの動物主体が独自に持っている、きわめて主体的な環境」の概念で、「動物は、客観的に存在する環境に生きているのではなく、あくまで主観的な環世界(環境)に生きている」としている。
つづめて言うと「動物が100、同じ空間にいたと仮定すると、そこには100の環世界(環境)があり、それぞれが、それぞれの環世界で生きている」というとらえ方である。(この概念はその後の動物行動学の発展に大きく寄与している)
人間は、環世界の背後には客観的な何か(環境)が間違いなく存在していることを知っているのだが、「私たちは常にそれ(客観的な環境)を切り離した断片(環世界)しか認識していない」といった展開につながる。
野生動植物の調査を主な活動域にしている私共のような者は「この動物や植物に、この環境はどう映っているのか?」などといった疑問を持ちながら調査を行うのが常である。
“地球規模で考え……”の標語に、“空疎なお題目”のような危うさを覚える根拠になると思うのだが、読者はいかに。
都市や農村といった主として人間の活動域について考える場合に置き換えると「一人一人にとって、集団(社会)にとって実感できる(してきた)環境はどう映っているのだろうか?─景観は?」となる。
私たちは客観的な環境の存在に執着しがちだが、彼ら(居住者:生物一般、特に人間、さらには築き上げてきている文化なども含めて)を理解するためには、彼らの(その時代も加えて)環世界を知ることの必然性を強く感じる。
都市とか農村といった“人間文化”によって、また“時代”によって、同じ環境でもさまざまな知覚空間(環世界─景観)が存在する(した)と考える。
環境問題の解決は、身近に実感でき、行動に確かさが伴う景観問題への取り組みによって道が開けるのではと考えている。
(NPO都市デザイン総合研究センター理事、ネクサス代表取締役) |
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