2009年 3月 7日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉18 小川達雄 賢治の盛岡案内4

    三、高松の池

  次に賢治たち二人は、田中の地蔵さんから高松の池へ。ここでおや?と思うのは、賢治たちは北郊からやって来たのに、また北郊の高松の池へ行った、ということである。ふつうなら高松の池から案内を始めて、次は市内の地蔵さんへ、という順になるのであろう。

  しかし賢治は、懐かしい地蔵さんから案内を始めた。行きたいところにまず行き、高松の池までの長い上田の一本道は、新らしい友人と行く新鮮な思いで歩いたに相違ない。高橋も気が合ったのであろう、すぐに賢治と、休日には北上山地や岩手山を歩くようになったから、その時はすでに、二人の呼吸は揃っていたものと思われる。

  その一本道は、やがて小さな坂にさしかかり、坂の上の右手には二軒の藁葺き農家が見えた。どちらも、その一郭では馬を飼う〔南部曲がり屋〕の造りである。賢治はその坂の下の土手道から、高松の池への近道をたどって行ったと思う。

  その途中では、いつもゆっくり、大きな水車が回っていた。土手道を行くと間もなく、思いがけなく高松の池の岸辺に出てしまう。

  現在はこの附近に、しゃれたベンチが置いてあるけれども、当時は左の図版のように、水辺まで草が繁っているばかりである。昭和十五年頃の写真には同じ岸辺に座った寄宿舎の生徒たちの一枚があって、この附近は池を眺める恰好の場所であったことがわかる。賢治と高橋も、岸辺のこの草むらに座ったのかもしれない。

  この日午後二時の気温は八度ほど、午前には二ミリばかりの降雨があった。池の面からの風は寒くて、二人は間もなく、はやばやと腰を上げたにちがいない。

  ここでは『最新案内モリオカ』(大正七年)から、高松の池の紹介文をあげておく。 「市の北端、上田小路裏手に池沼あり。

  高松の池と称す。周囲約三十一町。岸に
  は桜樹千有余を繞(メグ)らし、春季は
  洋々たる池水桜花と相映じ、時に小舟を
  棹(サオサ)せば香風自ら舟中の衣袂(
  イベイ)を撲(ウ)つべし。」−以下略

  この地は低湿の地であったのを灌漑のために堤を築いたのが始まりという。

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