2009年 3月 7日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉98 岡澤敏男 「烏の北斗七星」と村上昭夫

 ■「烏の北斗七星」と村上昭夫

  佐々木八郎と同様に「烏の北斗七星」に深く感銘した青年がいました。のちに、『動物哀歌』詩人となった村上昭夫のことです。

  昭夫は昭和20年3月私立岩手中学卒業後、満州国官吏に採用され大陸に渡り4月よりハルビン市のある浜江省公署に赴任したが、日本が8月15日に敗戦、満州国も8月17日に崩壊しわずか4カ月半で失業することになるのです。

  敵国となった満州で身よりも先輩もなく「人殺しのほか」はどんな仕事にも従事して死線をくぐりぬけた昭夫は、昭和21年秋引揚船で帰国し盛岡に無事生還しました。翌年の1月盛岡郵便局事務官として勤務したが3年余の昭和25年春、過酷な難民生活の後遺症のため結核を発病するのです。

  当時は入院したくても空ベッドがなく自宅療養をしていた。「六月頃、映画『きけわだつみの声』を見る。画面に挿入された宮沢賢治の〈あゝマヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません〉(童話集『注文の多い料理店』「烏の北斗七星」の中の烏の大尉の言葉)に感動した」と村上昭夫年譜(『動物哀歌』)にみられる。

  昭夫は「烏の北斗七星」により賢治文学に開眼するのです。秋、盛岡市下米内の岩手医大付属岩手サナトリウムに入院し詩を書き始めました。やがて戦争中の愛国少年が戦後詩人として大きく羽ばたき、上梓した1冊の詩集『動物哀歌』により昭和43年3月詩壇の芥川賞といわれる日本現代詩人会のH氏賞を受賞するのです。

  詩を書く以前の昭夫がたまたま観た映画『きけわだつみの声』の戦没学生や「烏の北斗七星」の大尉(少佐)の祈りは昭夫の魂をいかにゆさぶったのか。詩稿ノート「荒野とポプラ」の「わだつみの声」(未発表の習作)および「兄弟」(『動物哀歌』収録)の2作品に凝集されているのです。

  のんのんのんのん
  地の底から 海の底から
  湧き起こってくる
  うかばれぬ人々の
  わだつみの声
 
  あゝ真青な春の深みより
  のんのんのんのん
  聞えてくる
  わだつみの声
  (「わだつみの声」抜粋)

  また「兄弟」(昭和30年に詩誌「皿」10号に発表)は満州の首都新京(現長春)から国府軍(将介石軍)を追放して八路軍(中共軍)が入場した21年4月ころに体験した作品とみられる。昭夫は規律正しい八路軍の兵士に好意を寄せ、新京郊外の四平街攻防戦では八路軍への弾丸運びを手伝ったらしい。この作品は7連36行の詩稿だが、その第3連に「烏の北斗七星」が投影するのをくみとれるでしょう。

  元気でお国へ帰られるよう。
  向うに見える山はもう将ヒ(匪)の軍です
  でも悪いようにはしないでしょう
  兄弟なのですから
  私達も戦いたくありません
  兄弟なのですから

 ■詩篇「兄弟」(詩稿ノート「荒野とポプラ」
   より)  (第一連・略)

  一九四五年北満の秋
  きたないぼろきれのように不格好な
  若い農民兵士はそう言うのだ
  それならばと出した一本の煙草でさえ
  決して取ろうとはしないのだ
 
  元気でお国に帰られるよう
  向うに見える山はもう将ヒ(匪)の軍です
  でも悪いようにはしないでしょう
  兄弟なのですから
  私達も戦いたくありません
  兄弟なのですから
  〈このぼろきれのような兵士の何処から
   このような言葉がでるのだ〉
    (4、5、6連・略)
  日本帝国軍とソ聯軍と
  イギリス聯邦軍とアメリカ軍を通じて
  敗戦の空しい胸の中に
  一粒の灯をともしてくれた
  ぼろきれのような兄弟である


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