2009年 3月 21日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉22 小川達雄 賢治の盛岡案内8

     七、岩手公園

  石割り桜を目にしたあとは、いよいよ盛岡案内の最終地点、岩手公園であった。県庁前の大路から短い坂を下りると、二人のすぐ目の先には、公園の大きな石垣が見えてくる。

  石垣に沿って亀ケ池が広がり、賢治たちはその池の左側から、石垣の間を公園に入って行ったのであろうか。高橋秀松は、岩手公園のことを「不来方城跡」と記していたが、それは賢治にその名の由来を聞いていたからにちがいない。

  −不来方(コズカタ)は戦国期に見える
  盛岡の古い名で、その由来は、この地を
  荒らしていた鬼が三ツ石神社の神に捕ら
  えられ、二度と来ない誓約の手形を岩に
   押して許されたという伝説による−

  こんなことを話しながら続いて二の丸へ、賢治は大好きな公園の小道や石畳を歩く。賢治にはまた小学校六年の時、岩手公園の新しい銅像について記した、次の綴り方があった。

  「今度、皇太子殿下は盛岡においでにな
  ってをりますので私共は明後日盛岡迄遠
  足するつもりであります。今度は、皇太
  子殿下がおいでになってをるばかりでな
  くまだ新しく建った銅像も見ませんから
  それと工兵演習の後を見て来るつもりで
  あります。」

  この「皇太子殿下」とは大正天皇のことで、これは明治四十一年九月二十八日、東北巡遊の際に盛岡においでになった時のことを記しているが、賢治たちは十月一日、花巻から午前九時半到着の汽車でやって来た。

  賢治たちは盛岡駅から岩手公園に直行して、半月前に除幕式をあげたばかりの南部中尉の銅像を仰ぎ、その後は約十キロ離れた観武ケ原(ミタケガハラー現在の北厨川)まで歩いて、橋梁、塹壕など工兵演習の跡地を見学している。

  賢治の綴り方には、〔行こう〕〔見よう〕といった気持ちが渦巻いているように思われるが、盛岡に初めてやって来たその日、賢治は最も元気に歩き通した児童ではなかったか。

  さて年は過ぎても、賢治の気持ちはその時と同じはずである。高橋と本丸に行く渡月橋の前で、やはり胸が高鳴ったかと思う。

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