2009年 3月 28日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉101 岡澤敏男

 ■「流紋凝灰岩」の石切り場

  あたかも死の砂漠を行くような「疾中」30篇の詩のなかで、ただ一つオアシスを感じるのは〔眠らう眠らうとあせりながら〕の詩です。

  賢治は「病中」の詩で「睡たい/睡たい/睡たい/睡たいからって睡ってしまへば死ぬだらう」と病魔の足音に怯(おび)え、眠ろうとあせりながらも眠れない心境を語っている。ところが、ある日(昨日)の午前4時に憔悴(しょうすい)しきった賢治の枕許になんとも懐かしい夢が訪れたのでした。

  それを賢治は「きのふの四時のわたくしを羨む」というほどに、夢に現れた事柄を懐かしく回想するのです。その夢は盛岡高農2年生時代のことで、「あゝあのころは…二十の軽い心臓」をしていた20歳だったと回顧します。そして大沢坂峠に関わるある事柄について述懐するのです。

  賢治が最初に大沢坂峠を訪れたのは大正5年7月8日のことで、盛岡西北部、厨川村、滝沢村方面の地質調査をグループ3人で実施し大沢坂峠をたどったのです。このとき「大沢坂峠」への関心が高く3首の歌を詠んでいます。しかし病床の夢に現れた大沢坂峠は、地質調査で歩いた夏の快活な記憶ではなくて、セピアいろした木立がめぐる初冬のことでした。これはどうしたことでしょう。

  この夢には「石きりたちの一むれと/大沢坂峠をのぼってゐた」賢治が居たのでした。この二行をもってこの詩は完結しますが、その後「石切りたちと賢治」は峠を越えてからどこえ行ったのか、という未然の余情を残しているのです。

  夢に「石切り衆」が現れたということがキーポイントです。すなわち賢治が「石切り衆」と大沢坂峠をのぼっていたことは、彼らが峠を越えて〈石切り場〉に向かうことを暗示し、賢治もまた彼らのあとを追うことを暗示するのです。

  彼らの石切り場とはどこにあるのか。石切り場(石材産地)は、『滝沢村史』によれば大字篠木外山の石倉山と、鵜飼鬼越の黒カ沢の2か所をあげています。黒カ沢は大沢坂峠とは地域が離れているので除外されるから、石切り場とは大沢坂峠に隣接する石倉山をさしているとみられます。

  ここで切り出される石材とは「甘石」とよばれる凝灰岩だという。賢治ははたしてこの石切り場に同行したのか。賢治年譜に記録はないが、それをうらづけるような短歌作品が3首みられます。

  それは「大正五年十月中旬より」の歌稿Aにみられる次の3首です。
 
  霜ばしら砕けておつる岩
  崖は陰気至極のLipa
  r ite tuff
  凍りたる凝灰岩の岩壁に
  その岩壁にそつと近より
  凍りたる凝灰岩の岩壁を
  踊りめぐれる影法師はも
 
  凝灰岩を切り出した跡の岩壁や岩崖を「地質家」の賢治は、岩壁に近寄ってどんな種類なのか調べたのでしょう。そして、この岩壁は流紋岩の砕屑(さいせつ)を混有する流紋凝灰岩(Liparritic tuff)と分かったのです。リパーライト(流紋岩)が大好きな賢治だから、岩壁を調査してめぐる影法師も浮き浮き踊っているのです。

  たぶん7月には大沢坂峠から外山を経由していながらこの岩壁の調査をもらしてしまったのでしょう。今この岩壁の地質を確認し嬉しさの余り影法師が踊ったのです。

  このように初冬の大沢坂峠行は、地質家の賢治には忘れ得ない楽しい事柄だったので、死に怯え眠れぬ夜に訪れた「セピアいろした大沢坂峠の夢」はオアシスのような安らぎを与えたものと思われます。

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