2009年 3月 29日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉25 小川達雄 賢治の盛岡案内11

    八、天神山

  高橋秀松はその日最後の場所を、「天神山」と記したが、そこは最初の予定にはない、いわば追加の場所だったように思われる。

  というのは、公園本丸の突端から、いったい中津川や銀行の建物はどう見えるのか、賢治になったつもりで見回しているうちに、ハッと気づいたことがあった。

  その岩山の山ふところの下寄り、銀行の建物の上のあたりに、ポッカリ、深い緑の中にちいさく開いた一点が見える。その目ん玉のような、えぐられたくぼみには鳥居がちらちら見えて、それは天満宮のありかを示していた。

  賢治は、「うす陽のはざま(隙間)」(中学三年の歌)とか「そらの傷口(裂け目)」(中学四、五年の歌)、「そらのひゞわれ」(高農二年の歌)など、まるで別世界への入口のような空間には、つよく惹かれた人である。

  本丸からそこまで直線で三キロ、賢治はにわかに、(行きたい)という思いに駆られたのではなかろうか。その思いつきがなければ、ふつうにはもっと近い、中津川辺とか繁華街に行ったはずである。

  賢治は中学生の時に行き慣れた、紺屋町から加賀野新小路の道を行き、住吉神社の背後から天満宮に向かったらしい。天満宮は岩山の麓の、杉林の丘の上にあった。

  その石段はまず三十段、右左に屈曲してさらに鳥居までは九十段ほど、高く上り切った石畳から振り向くと、真っ白い岩手山が、正面に大きく横たわっていた。重なった雲の群れが、わずかに浮かんでいる。

  その前面には盛岡の市街が目いっぱいに広がり、右手には愛宕山の森、続いて北山の丘が見えていた。そちこちに散在する林を縫って、かなたには中津川が流れている。はるか左手には、中学の初めに何度か登った南昌山が、丸く突き出て見えた。

  賢治はすっかり安心して、いま眼前にひろがる天地のことを、あたらしい友人に語ったのであろう。賢治の大作「銀河鉄道の夜」では、「天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐる」のを見たジョバンニが、友人カムパネルラに、

  「僕もうあんな大きな暗(ヤミ)の中だ
  ってこはくない。きっとみんなのほんた
  うのさいはひをさがしに行く。どこまで
  もどこまでも僕たち一緒に進んで行か
  う」
  といった。

  その「まっくらな孔」とは、この場合、さっき本丸の突端から見た、えぐられたくぼみ−天満宮のことである。「ほんたうのさいはひ」とは、眼前の大地でくり広げられる、これからの学校生活の中にあった。

  高橋秀松に賢治は、ジョバンニがいったような気持ちを、しぜんに、抱きはじめていたのであろう。高農の生活は、これから始まる。親しい盛岡の天地をしっかり目の中にとらえて、夕暮れ近い頃、賢治は高橋と天満宮の石段の上に座っていた−こう考えていいと思う。

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