2009年 4月 4日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉102 岡澤敏男 早春の大沢坂峠の肖像

 ■早春の大沢坂峠の肖像

  「滝沢村史」によると「甘石(凝灰岩)は大字篠木外(と)山にある」と記載されています。「石倉山」は2万分の1の地形図(「小岩井農場」)にも、また大正5年製版の地形図(「厨川村」)でも見当たらないので滝沢村社会教育課に問い合わせたがよく分からないらしかった。

  そこで3月下旬に、友人の愛車で石切りたちと賢治が越えていった大沢坂峠をたどり、ナゾの「石倉山」を探してみることにした。

  この数日間、上空に寒気が流れ込んで雪を催したらしく峠道の所々に吹き溜まりができていて難儀を重ねたが、どうにか篠木方面とメイプルゴルフ場方面との分岐点にたどりついた。

  地形図を開くとこの地点から左折して林道があり、しばらく行くと標高325メートルの無名の山の側に着き、そこから山を巡って道は二股に分かれることになる。

  だが走ってみると、その分岐点のずっと手前から積雪が道をふさぎそれ以上進めなかった。めざす「石倉山」がどこなのか分からないが、「外山」というのは大沢坂(おさざか)峠の西側から篠木の集落に至る広い山地であって、この山地一帯は〈新第三紀中新世〉の地層で凝灰岩の岩石が主体の地質だといわれる。

  そこで、とりとめない期待をこめて道の東側の山を探索することにした。枯れ葉に積もる雪にすべりながらウサギの足跡のつづく斜面を立木につかまりどこまでも上って行くと、前方に三角点らしい標識があった。

  近寄り雪を払うと「地積図根三角点」と明記されているだけで山名はなかった。上りきった山に凝灰岩の気配もなくとんだムダ骨だったと思ったとき、三角点から谷を隔てて東方の正面に、なんと、さっき越えてきたセピア色の大沢坂峠の風景が樹間のフレームにおさまっているではないか。

  この三角点からはやや仰角の高さに位置し薄衣の雪をはらはらと羽織る大沢坂峠、さっそくポケットカメラで麗(うら)らかな早春の肖像を撮影しました。かつて賢治もこの位置で大沢坂峠を展望したことがあっただろうかとレンズをのぞく。

  賢治は大量の血を吐き死を予感した病床の夢に出現したのがなぜセピア色の大沢坂峠だったのか。それは峠を越える石切りたちが凝灰岩の石材を切出す外山の産地に関心を持ったからで、石切りの後について峠を越えたとする推理を述べました。

  その関心の中心にあったのはリパライト(流紋岩)質の凝灰岩でした。切り崩した凝灰岩の岩壁からリパライトの岩質を知って、自分の「影法師」が岩壁を「踊りめぐった」と詠んだ短歌に賢治の心境がよみとれる。

  「青ぞらに野ばらの幹もひかれるをあまりに沈むLipariteかな」と七つ森を詠んだ歌からも「リパライト」に執心した盛岡高農地学徒だった20歳の賢治の姿があった。

  宮城一男氏は「鬼越山そのものがのリパライト山だった」と指摘しているので、賢治が最初にリパライトを知りえた原点は鬼越山だったと思われる。

  鬼越山は、「石っこ賢さん」が盛岡中学1年のとき鉱石探しに行きメノウのかけらを採集したという忘れられぬ場所でした。賢治の病床の夢に大沢坂峠のほかに鬼越山もまで出現して、高熱にうなされる賢治をしばしば癒やしてくれても不思議でないと思われるのです。

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