2009年 4月 5日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉27 小川達雄 青春1

     一、うまやの戸口

  賢治が盛岡高農に入学した年の作品群は、丘のふもとの厩舎をうたった次の歌から始まっている。
 
    苺畑の柘植先生

   かゞやける
   かれ草丘のふもとにて
   うまやのなかのうすしめりかな
                 二三一
   ゆがみうつり
   馬のひとみにうるむかも
   五月の丘にひらくる戸口   二三二
 
  賢治は最初のこの二首を赤枠で括り、右肩には赤で「◎苺畑の柘植先生」と記していたので、賢治はさすがに中学時代とは違って、高農では先生への敬意から始まった、とつくづく思わせられた。

  賢治は中学二年の時、親友への手紙に、体操担当の佐々木舎監のことを

  「チュケアン。奴。来学期は生しておか
  ない。なますにして食ってしまはなくっ
  ちゃぁ腹の虫が気がすまねぇだ」

  と書いている。苦手だった体操の時間にはいつも目の敵にされたから、さすがに腹に据えかねていたらしい。米原文学士の英語の時間には机に岩手山を彫っていたし、一年上の宮沢嘉助は「よく教師に(賢治は)反抗した。というより反発したといつた方が適切かも知れない」(『新校本年譜』)といった。四年生ではあまり騒いだせいで寄宿舎からは出されてしまった。賢治が敬意を抱いた先生はわりに少なく、博物の山県頼咸と五年担任の橘川真一郎両教諭くらいのものであったろうか。

  すると「柘植先生」とは、農学一部の園芸と実験、農学大意、農場実習担当の教授である。賢治たちの農学二部では、「園芸」の講義を二学期から受けることになっていた。まだ教えられてもいない先生をいち早く知って、高農入学最初の作品にその名を冠したのであるから、賢治の敬意には相当にはっきりしたものがあったと見ていい。

  「苺畑」とあるから、「柘植先生」は作業服姿で苺の植付けを指導していたのであろうか。その柘植六郎氏には、すでに明治四十二年東京成美堂出版の『実験果樹園芸新書』があり、版を重ねていた。

  その園芸新書には、当時まだめずらしい苺の植付けについて、

  「根を四方に拡げ、丁度株の元の処まで
  土を懸け丁寧に手を以て根際を固め置く
  べし」

  こうあったから、先生は生徒たちの作業を、懇切に見て歩いていたと思われる。

  その場所であるが、本館を背にした斜め左手には、園芸作物実験室と教官室とが並び、その前に百五十坪ほどの花壇があった。その花壇の中で苺が栽培されていたのである。賢治は苺畑の脇の道に居て、彼方にはまだ新しい、二階建ての畜舎が見えていた。賢治は広い校地のまっただなかに居て、改めてしあわせを感じていたのであろう。

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