2009年 4月 9日 (木)

       

■ 〈保阪嘉内の短歌〉1 望月善次 開始のことば

 ご愛読戴いた「啄木の短歌、賢治の短歌」に続いて「賢治の周辺(その一)保阪嘉内の短歌」をお届けしたい。

  「啄木の短歌、賢治の短歌」(2008年4月1日〜2009年4月7日=147回)やその前の連載「賢治の歌(2005年4月1日〜2008年3月16日=1050回)」に続くものである。

  保阪嘉内への関心は賢治への関心から出発したものであるが、嘉内に対しては、筆者にも小さくない思い入れがある。以下述べるような三つの縁があるからである。

  縁の第一は、岩手大学である。筆者は、縁あって1979年4月から2007年3月までを教員として岩手大学で過ごすことができ、現在は同大名誉教授である。岩手大学が賢治や嘉内が学んだ盛岡高等農林学校は岩手大学の前身であることについは繰り返すまでもないことだろう。

  縁の第二は、筆者が嘉内の高校(旧制中学校)の後輩になるということである。

  嘉内は、1910年(明治43年)に山梨県立甲府中学校(旧制)に入学し、大島正健校長〔「Boys be ambitious!」で有名なクラーク博士(William Smith Clark1826〜1886)の直弟子で「少年よ、大志を抱け」の訳も大島のもの。〕や「星の文学者」野尻抱影(1885〜1997)の薫陶を受けるのであるが、評者も甲府中学校の後身山梨県立甲府第一高校に学んだのである。

  縁の三つは、嘉内の盛岡高等農林学校入学試験受験場である。嘉内は1年の浪人の後(実は、この点でも評者は嘉内と共通点をもっていることになる。)盛岡高等農林学校を受験するのであるが、その会場は、盛岡ではなく、東京、大塚の東京高等師範学校だったのである。そして、その場所で筆者もまた大学入試を受け、大学生活を送ったのである。

  嘉内の短歌が短歌作品として自立できる存在であるかは論点の一つとなろうが、その結論を性急に出すのでなく、具体的な作品に即した評釈を積み重ねて行きたいと思う。

  まずは『アザリア』掲載の作品から始めたいが、100首を越えるその作業の中から、まだ全貌が明らかになっていない嘉内短歌にどれほど接近すべきかの答も自然と出るだろうと考えている。

  なお「作品を作品として読む」が筆者の基本的立場であるが、今回は「賢治に大きな影響を与えた保阪嘉内とは、どうした人物だったのかを交えながら」という注文が編集部からついているので、その注文にも(基本的立場を崩さない範囲で)できるだけ応えたいと思う。

  最後に、連載の冒頭に、序歌としての思いも込めて、腰折れ7首を掲げることをお許し戴きたい。

  改めて、今回も御愛読をお願いしたい。
      
   甲斐の山脈(やまなみ)
       〜 嘉内から賢治へ 〜
               望月善次

〈ほっほっ〜〉と叫べる〈ほ〉とは明らかに〈保坂嘉内〉の〈ほ〉にあらざるや
 
叫ぶ声己れを貫き貫きて宇宙に駈けて行って了いぬ
 
駈けて行くその先にある銀河にて走らせてみた列車の二人
 
「無い」と言えば「ある」と応じてせめぎ合う俺の一途とお前の一途
 
賭けに出たお前に真向かう切なさに仰ぎみたりし甲斐の山脈
 
甲斐の国甲府盆地の八つおろし(*)又三郎も駆け抜けたりし
*「八つおろし」=八ヶ岳から吹く強い風
 
今更のお前を許さざるところお前が許さざるところまた

(盛岡大学学長)
      ◇    ◇
  原則として毎週火、木、土掲載。

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