2009年 4月 11日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉103 岡澤敏男「青き野 牛の群れ」

 ■〈青き野 牛の群〉

  賢治が自筆で略年譜をメモした「文語詩篇ノート」は、病没する1年前の昭和5年に使用されたものらしい。その1ページ目に14(歳)1909(年)「四月盛岡中学ニ入ル」とメモされ、1年時の銘記すべき事項が2ページにわたり記載されている。

  そのなかで1学期中の行動を「鬼越山 中村ふじ夫、長浜、青き野 牛の群 のろぎ山」と列記し四角い線で囲んでいるのがみられる。この鬼越山〜牛の群の事項はつぎの短歌(明治四十二年四月より)に照応するとみられます。
 
  鬼越の山の麓の谷川に瑪
  瑙のかけらひろひ来たり
  ぬ
 
  賢治は盛岡高等農林2学年(大正5年)のときに、「盛岡付近の地質調査」を実施し鬼越山一帯の岩石を採取して流紋岩(リパライト)の地質を知るわけで、鬼越山は若き日のリパ・キチ原点としてまさに忘れ得ぬ聖地だったのです。

  そして略年譜の第一ページ特筆した鬼越山での事項もまた、晩年の記憶の深層においてなお鮮明に刻まれている残像だったのでしょう。その残像にある〈青き野 牛の群〉という光景は、14歳の賢治に近代農業にめざめさせたカルチャーショックの真の意味を見出させてくれるのです。

  鬼越山の峠から賢治が遠望した青い原野に放牧されていたのは小岩井農場の牛群とみられます。小岩井農場では明治33年に英国よりエアーシャ種牛25頭、オランダよりホルスタイン種牛20頭、スイスよりブラウン・スイス種牛25頭を輸入、明治41年にもオランダよりホルスタイン種牛22頭、スイスよりブラウン・スイス種牛2頭を輸入しており明治42年(1909年)には300頭を超す優秀な牛群を飼育していたのです。

  これらの乳牛たちは上丸牛舎で飼育され、放牧には長者舘の牧野をあてていたらしいのです。農場に保管される明治30年代後期のアルバムに、現在の長者舘2号草地とみられる牧野に牛群を放牧している写真があり、牧野の地平に燧堀山(かどほりやま)が顔を出しているのが長者舘の目印です。

  賢治の目に映ったのはこれらの〈牛の群〉だったのでしょう。当時は鬼越峠の西方には散在する松があるだけで長者舘の牧野はよく見えていたはずです。

  その青い牧野に50頭以上もの牛の群が放牧されている光景に、少年賢治は異文化に遭遇した衝撃的印象を心に〈青い野 牛の群〉と結像したものと思われます。

  このように、鬼越山は地学徒としての原点であるとともに小岩井農場へ交流する原点でもあったのです。農場との交流は黒ボク(火山灰土)の改善に石灰石細粒を施用したデータを入手することから始まったらしい。

  この施用は高農時代に恩師関豊太郎教授が欧米の知見をいち早く紹介したもので、農場主(岩崎久彌)も米国の農業専門誌から知見を得て、大正10年に「全耕地(800町歩)に石灰石細粒を施用す」と『小岩井農場七十年史』にある。

  賢治が大正10年稗貫農学校の教師となり翌11年1月に農場耕耘(うん)部を訪れたのは、おそらくこの施用データの入手だったと思われます。賢治は耕耘部を拠点として3600町歩にも及ぶ農場の隅々まで歩き回ったらしい。長篇詩「小岩井農場」をはじめ5篇の詩、2篇の童話にその名残をとどめているのです。

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