2009年 4月 18日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉104 岡澤敏男 農場のキーマン武安丈夫

 ■農場のキーマン・武安丈夫

  賢治が小岩井農場へ初体験したのは明治43年9月のこととみられる。英語の青柳亮先生に引率され岩手山に登った11名の一人でした。

  下山にお花畑コースをとり御釜湖、御苗代湖に立寄り網張温泉に1泊。翌朝、網張街道をたどり農場の下丸を横断したとき農場直営の医院(医局)の前でセッター種の子犬と出会ったのです。

  青柳先生がリュックに残っていた食パンをやると子犬は尻尾をふって先生の手をぺろぺろ舐(な)めました。この医局には医師楠壟夫(つかお)が居住しており、セッターは楠家の飼犬ジョンでした。

  青柳先生と交流するジョンの姿に賢治は新鮮な感動を覚えたのでしょう。晩年に略年譜をメモした「文語詩篇」ノートの4ページにつぎのような記述がみられる。

  〈二十三、二十四日 岩手越 雨、火山灰層 小岩井 農場、楠ジョン、青柳先生。パンを食みくる。〉

  このメモに特筆された「火山灰層 小岩井農場」とあるのは、まぎれもない小岩井農場初体験の印象だったのでしょう。

  賢治と小岩井農場との接点を示す注目すべき1首が「明治四十四年一月より」の歌稿にみられます。
 
  小岩井の育牛長の一人子
  とこの一冬は机ならぶる
 
  この歌のモデルは武安丈夫といい小岩井農場理事武安陽吉の長男でした。盛岡中学1年生の丈夫は三学期(明治44年1月)から寄宿舎の編成替変えにより2年生の賢治と同室になったのです。しかしこの歌は虚構により作られているのです。

  丈夫の父陽吉は育牛担当職員であり育牛(掛)長は藤田辰雄だったことが農場の社史にみられます。また『小岩井小中学校同窓会名簿』によると、丈夫にはアイ、シンの姉妹と季春、満夫、望の三弟が在籍する記録がみられ、丈夫は決して「一人子」でなかったことも明らかなのです。

  同名簿には丈夫が小岩井小学校を卒業したのは明治42年(賢治と同年)とあり、何かの理由で賢治より1年遅れて盛岡中学に入学したものとみられる。

  賢治と丈夫が寄宿舎で同室だったのは明治44年1月より3月までの期間に過ぎなかったが、賢治は丈夫から小岩井農場に関するいろいろな情報を入手したのでしょう。理事の家庭に育った丈夫は農場内部の事情に精通していたと思われる。賢治は5月15日に行われた3年生全員の小岩井農場遠足には丈夫から予備知識を得ていたので、本部や耕耘部の洋風な建物、観測台、馬車鉄道、乳牛たちに接しても初めてのような気がしなかったのでしょう。

  この日の見学コースは定かではないが、明治44年5月15日の「上丸牛舎日誌」備考欄には「盛岡中学職員生徒百余名」の記録があり、賢治たちは牛舎を訪れてヨーロッパから輸入された乳牛のホルスタイン・エアーシャー・ブラウンスイス種について係員より説明を受けながら見学したことを裏づけています。このとき、賢治は一昨年の春に鬼越峠でみかけた〈青い野 牛の群〉の鮮明な記憶を重ねていたのかも知れません。

  この遠足のあと中学時代の年譜には小岩井農場を訪れたという記録はなく、小岩井農場と頻繁にかかわるのは盛岡高農時代以降のこととみられます。

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