2009年 4月 25日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉32 小川達雄 青春6

    一、関豊太郎と標本室

  これまで、盛岡高農における賢治の生活は、苺畑の柘植先生あるいは家路についた山田博士の姿など、教授陣への敬意とともに始まった、と記して来た。今回も同じ範囲のことであるが、先生の側の方としても賢治に応えるところがあり、賢治は目に見えないその引力によって、かけがえのない道を歩んだということを、少し書いておきたいと思う。

  賢治が盛岡高農で最も影響を受けた先生は、農科二部主任の関豊太郎教授であるが、そもそも関教授と賢治は、いったい、どんなきっかけで出会ったのであろうか。

  このことについてヒントになるのは、『盛岡高農校友会報』第二十八号に発表された、関教授の論文「普通岩石の肉眼的識別に就いて」である。これは賢治が一年生の時の大正四年、夏休み直前の発行であって、この論文を記すに至った経緯を、教授はこう記していた。
「余は本校卒業生及在校生諸子より野外に於て使用するに便なる普通岩石識別表なきやとの質問に接せること既に幾回なるを知らず〜余は本月の初め米人O.Bowlesの著したる普通岩石識別表と題する袖珍書(シュウチンショ、小型本)を得て通読したるに細部に立入りては間然すべき点多きも大体に於ては実用の目的に適へるを認め之を訳述し取捨及補正を施し本会報に登載することゝせり夏期休業中に於 ける野外の観察に対し多少の裨益を与ふることあらば幸甚とする所なり、」

  教授のこの論文は、およそ百二十種に及ぶ岩石を、その硬度・形状・構造・含有鉱物等々から分類したものであるが、それは「在校生諸子」の質問により、「夏期休業中に於ける野外の観察」のためにいそぎ編集した、と述べていた。

  すると関教授から地質学を学んだのは、農科一部と二部、それに林科の学生であるが、教授はあわただしく思い立ったと書き添えていたから、その「在校生」は新しい一年生のことで、その要望に応えるために稿を起こした、と見ていい。

  農科一部の生徒はこの後、教授と実地の踏査をすることはなく、また林科での地質学は、補助的な講座であった。すると残るのは二部一年生十四名であるが、そのうち盛岡地方地質調査の報告と、続いて江刺郡、稗貫郡の地質・土壌の調査報告をまとめたのは、じつに賢治その人であった。

  そこで入学後まもなくの賢治が、岩石の識別について教授に質問を重ね、すぐに関教授は地質に関する賢治のひらめきを知った、と考えていいと思う(参考・亀井茂『早池峰』8号)。その材料は、関教授が集めた、世界的なクランツ社製を中心とするさまざまな岩石・鉱物標本であった。農科一部と二部校舎の間には大きな標本陳列所があり、そこには千余の標本類が陳列されていたのである。これを目にした賢治の喜びは、どんなであったことか。

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