三、山川の勢い
この報告文書は、まずその調査範囲と地勢の概括から始まったが、ここでは三区域に分けたその先頭をあげておく。
むろんこれは学術報告であるため、小説や随筆を読むようなわけにはいかない。しかし、ひとつひとつの山とその標高を押さえ、その山々の勢いに乗って書き進めていく叙述からは、地道な中にも秘められた賢治の情熱が伝わってくるように思う。
「第一区域は図幅の略中央を南走する北
上以東に於ける丘陵乃至高原性を帯びた
る山地にして、主として古生層及び旧火
成岩より成る、則ち盛岡市の東端に薄
(迫?)れる天神山(一六〇米)岩山(三
四五米)蝶ケ森(二二三米)等又市の北方
に当り黒石山(二五四米)大森山(二七一
米)等あり、此等の山岳は東方に連りて
次第に高度を増加し高原性を呈す、黒石
の山勢は米内川を隔てゝ高洞山(五二二
米)となり岩山に続て其南東に大森山
(三八〇米)あり、蝶ケ森の東隣には鑪
山(タタラヤマ、三九〇米)を突出し、更
に図幅の東端境界害に於いては大蔵山、
高森山、高帽山等六百米を超へ(え)たる
山岳を起す、此等は実にナウマン氏の所
謂北上山地の西縁を形成するものとす」
手堅い、淡々とした文章であるが、左に添えた附図(賢治作製)の右側の地勢は、これによって簡潔に説明されているのではなかろうか。
天神山、岩山には何度も行き、蝶ケ森は中学最初の遠足地、鑪山のすぐ隣であった。黒石山、大森山は、中学生の時三度にわたって兎狩りをしていて、いずれも賢治には懐かしい山々である。賢治は手兵を自在に動かすように「次第に高度を増加し」「突出し」「山岳を起し」と、ひしめく山々を親しく語っていた。
ナウマンは西欧の地質学を最初に伝えた学者で、氏の命名の一端をあげたのは、賢治がその説にも親しんでいたことを示す。
この附図には、右の本文に記された山々と主な地名を記しておいた。原図では十三種に及ぶ岩石と地層が記入されていたが、読み取ることの出来たものだけに止めた。
次には、川の勢いについてふれておく。
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