2009年 7月 4日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉52小川達雄 盛岡の地質調査10

    七、続・沼森の夕暮

  じつは賢治の行動には、おや?と思わせられるところが、いくつもある。「沼森」の文でいうと、(どうして地図をたよりに、賢治はひとりでやって来たのか?)ということで、もともとその地域は、賢治と細山田良行、小菅健吉、三人の担当であった。

  まだ調べていなかった初めての地域で、賢治はさっさとひとりで、地質の判定をしているが、さてはクラス全体での調査といっても、実際には、賢治に任せるところは任せてしまう気楽さが、かなりにあったのであろう。事実、夏休みになると、みな、すぐに帰省していた。

  次の箇所には、専門的な用語がいくつか出てくるが、そんなところでも、ひとりだけ抜きんでた専門家、賢治のむしろひとりごととして、さらさら読んでおくことにしたい。

  「これはいかんぞ。泥炭だぞ、泥炭があ
  るぞ、さてこそこの平はもと沼だったな、
  道理でむやみに陰気なやうだ。洪積ごろ
  の沼の底だ。泥炭層を水がちょろちょろ
  潜ってゐる。全体あんまり静かすぎる、
  おまけに無暗(ムヤミ)に空が暗くなっ
  て来た。もう夕暮も間近いぞ。柏の踊り
  も今時だめだ。まばらの小松も緑青(ロ
  クショウ)を噴(フ)く。」

  わたしは、中学では先輩の小田四郎氏、同級の及川昭四郎氏といっしょに、その草原を訪れた。小田氏は沼森の写真を何枚か撮り、及川氏はわたしに、ここは泥炭地であることを教えてくれた。

  なるほど沼森の南、五百bのあたりからは湿地帯が始まり、それは小さな沼地に続いているようすである。賢治もこの附近で、

  (これはいかんぞ。泥炭だぞ。)
  と、あたりを見回したにちがいない。

  そこでおもしろいのは、その「泥炭」と「沼」のことで、これはふつう、当時の地質学書には記されていなかった。しかしその年に始まった関教授の講義(「土壌及肥料」、週三時間)で、それはちょうど聞いたばかりのことであったらしい。

  関豊太郎著『土壌学講義』では、沼沢等で多量の植物質が腐敗して泥炭を生ずることを、くわしく説いていた。また、氷河期ともいう時代の洪積土について、いま賢治が見ている丘陵地を思わせる、具体的な叙述があった。

  賢治の講義ノートについては、この一学期に同室の農二、工藤藤一が、こう云う。

  「宮沢さんは教室での先生の講義の筆記
  もなかなか早く然(シカ)も正確であつ
  た為、教室では充分な筆記が出来なかつ
  た宮沢さんと同級生の方々が夜になると
  必ず筆記の書き落しの部分を聞き合せに
  来られた。」

  賢治は講義をよく聞いていて、泥炭のことも、すっかり頭に入っていたと思われる。

  さて、あたりは暗くなりかかって、柏の大きな葉も静まって、もう風にひるがえることもない。そこで賢治は、再び沼森と向き合う。

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