2009年 7月 12日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉55 小川達雄 盛岡の地質調査13

    八、補遺

  この項目の最後には、書き残していたことについて、少しふれておきたい。

  まず、この調査への評価であるが、賢治がこれを書いたのは高農二年の時で、それはいまの大学一年の時に当たる。ずいぶん早いことになるが、一昨年に出た加藤碩一著『宮沢賢治の地的世界』では、「その記載は当時の学生のレベルをはるかに超える高さ」と記していた。

  加藤氏は特大版の『日本地質図大系』をはじめ、くわしい『地質学ハンドブック』等を出した方である。氏は亀井茂氏(盛岡・賢治の会会長)があげた、この調査の特徴をそのまま引用していたが、亀井氏の所論(『早池峯』二十五、二十八号)には、わたしも多く教えられた。

  氏の解説は緻密で、ゆきとどいているが、わたしはとくに、亀井氏が賢治の仲間、塩井義郎氏から、同窓会の折りに聞いた話に、つよく同感した。それは

  「盛岡附近地質調査で生徒等の行った調
  査というのは、それぞれの担当地域の岩
  石を採取して来て、関先生に岩種を判定
  してもらうと言う単純なことであった。」

  塩井氏は、その地質調査があった年の級長である。夏休みになって、調査には賢治と二人だけが残った、その人が云うのであるから、これは事実にちがいない。実際、級友たちは一年生の時、地質学の概論を聞いただけであってみれば、一々の岩石の分類など、出来るはずがなかった。

  そこで塩井氏のこの話からは、そうした「単純なこと」を、みんながまとまってやり通したこと、その中に、賢治はひとりだけ抜きんでて、多くの岩種を判定し、資料を調べていたであろうこと等々、そんなクラスのようすが思い浮かぶ。

  また、岩手大学の土壌学教授・井上克弘氏の『石っこ賢さんと盛岡高等農林』に、お陰をいただくことが多かった。賢治の時の高農本館(現在の農業教育資料館)を仰ぎ、井上氏の本を手にすると、わたしも新たに入学したつもりで、賢治の高農時代を調べてみる気持ちになった。

  沼森の草原には、小田四郎氏と及川昭四郎氏といっしょに行った。前にも記したがお二人は中学の先輩・同級生である。

  じつは沼森の文章はわたしの苦手で、現地に実際に行ってみなければ、とてもその散文の中には入ることができなかった。沼や落葉松、沼森、こぬかぐさ等々を目にして、ようやくわかって来たと思う。

  帰化植物のこぬかぐさは、ふつうどこにでも群がっているが、沼森の草原では、ほんの小道の脇に生えていただけであった。賢治にはそのさびしさが心の拠り所であって、その草は、いわば気持ちを支える背景だったのかもしれない。

  盛岡附近地質調査の報告文書は、やはりむずかしいけれども、調査の間の心情の一つは、散文「沼森」としてたしかに記されているので、これはさらに、ていねいに読み解く必要があると思う。(この項、了)

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