2009年 7月 18日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉56 小川達雄 秩父路を行く・上1

     一、帝室博物館

  賢治は大正五年、盛岡高農二年生の秋に、農科二部と林科の生徒達とともに埼玉・秩父地方の地質調査旅行に参加した。

  次はその出発に際して、親友保阪嘉内に出した葉書であるが、ここには旅立ちの時の賢治の思いが、ありのままに記されていた。

  「甲斐国北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様
  ウヱノスタテオーン ミヤサハ〔鉛筆〕
  あなたが手紙を呉れないので少し私は憤
  ってゐますがまあ今日から旅行の話しを
  致します。今日はその序であります。今
  博物館へ行って知り合ひになった鉱物た
  ちの広重の空や水とさよならをして来ま
  した。又ニコライの円屋根よ。大使館の
  桜よ。みんな さやうーなら。」

  賢治は七月末に上京して、八月中は神田・東京独逸学院の「独逸語夏季講習会」に出席していた。七月一杯は盛岡附近地質調査に掛かりきりであったのに、続いては独逸語を学んでいたわけである。

  その旅行の集合場所は上野駅であったらしいが、賢治はそれを「ウエノスタテオーン」と、ドイツ語式に記していた。賢治は熱心に講習を受けていたのであろう。

  「博物館」というのは、上野公園内の帝室博物館のことで、その階下には三室に及ぶ地質鉱物室があった。賢治は、「知り合ひになった鉱物たち」と云ったが、これはその日の午前中に鉱物を見た、その一回だけでこう記したのではあるまい。その日賢治は階上の広い日本美術室でたくさんの浮世絵を見、とくに東海道五十三次の中の、広重の絵にはつよくうたれて、鉱物のほうばかりを見ていたのではなかったはずである。

  もともと、上野の地質鉱物室のことは、神保小虎著『日本地質学 全』の付録に、秩父地方の地質巡検案内と併せて、くわしく記されていた。賢治はそれによって秩父の地質のあらましを知り、何度か上野の博物館に行ったのであろう。「〜知り合ひになった」と賢治が書いたのは、夏のあいだに幾度かそこを訪れたゆえに記した、と考えてよいようである。

  また「ニコライの円屋根」は、神田の東京独逸学院から四、五百bほどのところにあり、異国そのものの銅板葺きの円屋根は、いつも近くに見えていた。それは「大使館の桜」とともに、別次元への賢治のあこがれをそそりたてるものにほかならない。

  この葉書を読むと、賢治は日頃快く親しんでいたものを一つ一つとりあげ、「みんな さやうーなら」と云いつつ、また新しく目をひらく世界への旅を始める、と告げていた。その軽やかな文面からは、大きな体験となるはずの地質見学旅行に、さらりと入っていく賢治のふだんの姿が浮かんでくる。

  上野駅は午後一・二〇発、そして秩父鉄道の始発駅、熊谷駅には同三・二〇着。かくして関教授と神野幾馬助教授統導の一行は、秩父旅行の第一歩を踏み出した。

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