2009年 7月 19日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉57 小川達雄 秩父路を行く・上2

   二、熊谷寺

  熊谷町は古くから中仙道の主要な駅とされた土地柄で、四方に開けた有名な商業地である。その大正五年の戸数は三.七八八、人口は二一.九八四。

  上野からやって来た盛岡高農の一行は、熊谷駅から大通りを七、八分ほどまっすぐ行った左手、目抜き通りに面した松阪屋に宿泊したらしい。このあと、賢治が保阪嘉内に出した葉書によれば、賢治は宿屋に着いてすぐ、浄土宗の名刹・熊谷寺(ユウコクジ)を訪れていたことがわかる。

  その葉書には、次の歌が記されていた。

  熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はる〓〓と
  泪(ナミダ)あふれぬ。
 
  「熊谷の蓮生坊」とは、源平の戦いで知られた熊谷直実のことである。直実は須磨の浜べで平家の若公達・平敦盛を討ったのち、発心して法力房蓮生と名乗った。

  その「蓮生坊がたてし碑」とは、今は境内から失われて久しく、まったく目にすることはできないが、幕府の林大学頭編纂の『新編武蔵風土記稿』によれば、

  「敦盛追善碑 青石にて作りし碑なり、
  前面に南無阿弥陀仏、為無官大夫敦盛頓
  證菩提云々」(巻之二百二十)

  と記されているように、これは若くして命を落とした、平敦盛追善の碑のことであった。

  すると、賢治は直実の深い仏心に、思わず涙を流したことになるが、しかし古い碑にそこまで強く心をうごかした、ということには、賢治自身に独特な、その哀話への記憶があった、と見ていい。

  それは、明治の頃には大いに流行した、薩摩琵琶の一曲・「敦盛」などを、中学生の賢治たちは身を入れて聴き、自分たちもさかんに朗吟していた、という思い出である(明治帝も明治十六年、その曲の弾奏に聴き入り、後にはそれを口ずさむことがあったという)。

  盛岡中学の校史には、賢治が入学した明治四十二年の十一月、「杜陵朗吟会」発足の記事があった(『白堊校百年史』)。それは漢詩や琵琶歌を朗吟して青年の元気を鼓舞する全校的な会のことで、これは賢治が三年生の時の年譜、

  「一二月 寄宿舎で薩摩琵琶が流行し、
  夜食堂で唸りあう。『石童丸』『城山』
  などを覚え、帰宅したとき聞かせ、老人
  たちの涙をしぼらせた、という。」(『
  新校本全集・年譜篇』)

  この記載と関係があった。

  賢治は、それはいつのことであったにしても、想起すればただちに、その時の思いと一体になることができたようである。

  いまや盛岡からはるか離れた地に来て、新しく地質学探求の旅をする折りに、思いがけず古人のゆかしい心情にふれて、賢治は強く心をうごかされた|こういうことなのであろう。

  次は、熊谷寺を出てからの歌である。

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