2009年 7月 25日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉58 小川達雄 秩父路を行く・上3

    二、続・熊谷寺

  書くのがあとになってしまったが、賢治が熊谷寺を訪れた大正五年は、ちょうど本堂の大伽藍が修築された、その翌年のことである。残された写真によれば、その時、境内には新しい大きな本堂の銅板屋根が大きくそびえて、前庭には平たい地面が広がっているばかりであった。

  現在は、本堂に至る石畳の参道にコメツガの植え込みが並び、秋にはコスモスの花が揺れているが、当時は本堂左手奥に蓮生坊の墓、すなわち五輪の塔と、敦盛追善の碑が並んでいただけの、簡素というか、さびしげな境内であった。賢治はしかし、直実と敦盛の悲劇を物語る、古びた二個の石塔をしみじみと見て、それでひとしお、感銘を深くしたのであろう。

  さて、次は熊谷寺の山門を出て、南の空を仰いだ時の歌である。
 
  武蔵の国熊谷宿に蠍座の淡々ひかりぬ九
  月の二日。
 
  二句目までの調子には、合戦の際における、勇士の名乗りの気配があった。直実の名乗りは、薩摩琵琶歌「小敦盛・上」に、こう記されている。

  「〜其許(ソコモト)に落させ給ふは平
  家方にてもよき御大将と見奉る。斯(カ)
  く申す某(ソレガシ)は、武蔵の国の住
  人篠頭(シノトウ)の旗頭(ハタガシラ)
  熊谷の次郎直実と申すものなり、」

  これは敦盛を呼び止めた直実の名乗りであるが、それは「武蔵国熊谷宿」をバックにした武者であったからからこそ、次の「蠍座」が生きてくる。

  蠍座の一等星・アンタレスは、ギリシャ神話においては強者・オリオンを刺し殺した蠍であった。するとこの歌の構図は、勇士の住む「武蔵国熊谷宿」にふさわしい「蠍座」が、秩父旅行最初の九月二日、天上から静かに賢治を見守っている、ということであった。

  賢治の秩父旅行に関する、最初のくわしい研究は、萩原昌好氏『宮沢賢治「修羅」への旅』であるが、そこで氏は、熊谷市のプラネタリュウムに依頼して、当時の月齢と蠍座の位置を復元して頂いた、という。

  それによって、氏は「賢治が見た蠍座は地平すれすれの位置にあり、月齢は5・3だから、確かに『あはあは』としていたのである」と記した。

  これに付記すれば、二日、熊谷の雲量は午後一時に一(空全体の十分の一)、午後六時に六。気温はこの日最高の三一.五度から二十七度に向かうあたりで、夏特有の巻層雲が立ちのぼっていた(熊谷気象台による)。賢治はその雲の隙間に、蠍座を目にしたわけである。

  その日賢治は午後三時二十分に熊谷駅着、宿までは七、八分で、ひと休みののち、五分ほどの熊谷寺へ。すると大体、午後五時過ぎの頃に、寺を出たかと思われる。

  さて次はいよいよ、秩父への旅である。

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