2009年 7月 26日 (日)

       

■ 〈胡堂の父からの手紙〉225 八重嶋勲 天下に一流をなすようにせよ

 ■297巻紙 明治42年2月4日付

宛 東京市麹町区飯田町四丁目三十一、
                日松館
発 岩手縣紫波郡彦部村
前畧申越之衣類新調致送付スルコトニ付鳥渡打合候、
かすり□在合アリ、是ニテ羽織仕立、在合地織茶縞壹反アリ、之ニテ袴仕立送付シテ可ナルヤ、将又綿入之方必要ナルカ、羽織モ黒紋付必要ナルカ、又一重子トハ襦ハン迄必要ナルカ、袷ハ地織ニテ不可ナルカ、折返シ返報スベシ、
先達テノ同郷会演舌ハ面白ク候、昨日ノ岩手新聞ニモ相見得候共学生ヲ除、他ノ紳士丈姓名記載有之候、以後演説ナリ、文学ナリ、大ニ発展シ、他日天下ニ一流ヲ為シ(ス)様被可致候、病後不活発ニ相成タル様ニ見受、且ツ世間モ評シ居ル様ナリ、了テ善事ハ卒先シテ世間ニ名ヲ知ラルゝ様今ヨリ心掛ル方可然、風馬牛即チ安村、石川ノ如キ目下盛岡ニ名聲高ク相成候、右用事迄、早々
   二月四日        野 村
    野村長一殿
 
  【解説】「前略、申し越しの衣類を新調して送ることについてちょっと打ち合わせをしたい。

  かすりの有り合わせがあり、これで羽織を仕立て、有り合わせ地織茶縞が一反あり、これで袴を仕立て送付してもよいか。はたまた綿入れの方は必要あるか。羽織も黒紋付が必要か。また一重子とは襦袢(じゅばん)まで必要であるか。袷(あわせ)は地織ではだめか。折り返し知らせよ。

  先だっての同郷会演舌は面白かった。昨日の岩手新聞にも載っていたが、学生を除く、他の紳士だけ姓名記載してあった。以後演説なり、文学なり、大いに発展し、他日天下に一流をなすようにせよ。

  病後不活発になったように見受け、かつ世間も評しているようである。善事は卒先して世間に名を知られるように今から心掛けるのがよい。「風馬牛」即ち安村省三、石川啄木のごときは目下盛岡で名声高くなっている。右用事まで、早々」という内容。

  安村省三は、長一の盛岡中学時代の同級生。東京外国語学校露語科を出、岩手日報社から明治39年に報知新聞社に転じた。「風馬牛」「烏勘左衛門」のペンネームで岩手日報、岩手毎日へ寄稿、すぐれた時評や人物評を執筆した。

  また、石川啄木は、長一の盛岡中学校の後輩で文芸活動を共にし親交があった。このころ、啄木は釧路から上京、創作活動に熱中した。東京毎日新聞に小説「鳥影」を60回連載。1月「スバル」創刊。3月、東京朝日新聞に入社。校正係を務めている。

  つまり、この時点は3人とも東京におり、交流があったのであろう。

  啄木の日記、明治42年2月19日

  「九時頃野村長一君に起さる、数年ぶりの会見、やがて金矢光一君来り、鳥影のモデルのこと、共に昼食をとる、雨降りいづ、金矢君は二時頃に帰ったが野村君は四時頃までゐた、一昨年細君を出して了つたとのこと、或女と約束がなりたつてるとのこと、与謝野氏より(鳥影)云々の手紙、屹度鈴木氏が世話するといふ話をきいてこんなことをしたのだ、太田氏から原稿催促 [受信]太田君ハガキ、与謝野氏手紙、」とある。そのころの長一の気持ちや動きが分かりとても参考になる。

  父は、以前、小説家や絵描きは決して賛成しなかったが、この手紙では「以後演説ナリ、文学ナリ、大ニ発展シ、他日天下ニ一流ヲ為ス様被可致候」と積極的に勧めている。そして長一は、後日「胡堂」という筆名で小説や随筆等を大いに書き、「あらえびす」というペンネームで音楽やレコードの評論を数多く書いて大成するから面白い。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします