2009年 9月 5日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉70 小川達雄 秩父路を行く・下1

     一、乗合馬車

  明けて九月四日は、秩父の地質見学旅行第三日目である。この日は国神の梅乃屋を出発して、秩父郡中央部の小鹿野町まで、ほぼ十三`余りの距離を行った。
 
  荒川はいと若やかに歌ひ行き山なみなみ
  は立秋の霧。
 
  霧はれぬ分れてのれる三台のガタ馬車の
  屋根はひかり行くかな。
 
  賢治は保阪嘉内宛に、熊谷寺の敦盛追悼の歌以来、寄居とこの朝のこと等、毎日歌を書き続けていた。こうした賢治の歌は、ごくしぜんに書かれていたから、それでわかってくることがあった。

  その朝は、「霧」が立ちこめていたという。いかにも山峡の道らしいが、「霧はれぬ」というから、それは朝日が射し込んで来た情景であろう。

  すると、その朝の日の出は午前五時十四分頃で、その時にはみんな、乗合馬車に乗っていたわけである。これはずいぶん早い出発であった。

  この大正五年の「立秋」は八月八日のことで、「立秋の霧」とは、新鮮な秋の気配を感じさせる霧、というほどの意味か。賢治たちは「若やかに歌ひ行き」というから、この見学旅行はよほど楽しかったらしい。

  賢治たちはこの日、馬車三台に分乗したという。それは御者のラッパの音色からトテ馬車ともいわれ、明治の始め頃は、大いに人気を呼んだ乗物である。

  さすがに賢治も、この屋根付きの馬車にはめずらしさが先立ったらしいが、しかしその三台の「ガタ馬車」|これは、石ころ道を行く、ガタンガタンという車輪の音からの形容か|は、見学隊の意気込みそのまま、屋根を光らせて街道を行く。この歌には、霧の中から現れて進む、三台の馬車と賢治たちとのあいだの、なにか一体感があった。

  賢治は寄居で渡し舟に乗った時、〔舟は真っ白な空に浮かんで行く〕とうたったが、この朝も、〔馬車の屋根は光りつつかなたに進んで行く〕と、楽しかったのであろう。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします