2009年 9月 6日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉71 小川達雄 秩父路を行く・下2

    二、郷平橋

  九月四日早朝、馬車の群れは車輪の音をガタガタ響かせながら、街道を行く。この大正五年、秩父郡の乗用一頭立て馬車は十台、そのうちの三台を連ねた見学隊は、まことに意気さかんな、若者たちの一群であった。

  この日の見学地については、『埼玉県秩父郡誌』(秩父郡教育会、大正十四年)が参考になる。

  その「郡誌」には、旅行隊が一泊した国神村のことが、こう記されていた。

  「化石産地 大字金崎蟹澤の沿岸竝(ナ
  ラビ)に大字大淵・同野巻赤平川の沿岸
  は化石の産地なり。其の種類には介(貝)
  類、鮫の牙・木葉等あり。」

  この日のいちばんの目的地は、宿泊予定地・小鹿野町手前の奈倉|通称ヨウバケ、各種化石の産地|であったから、ほかに考えられるのは一個か二個の見学地、ということになる。しかし国神村と奈倉の地以外、この日の行程の他の村々に、地質関係の記事は見当たらなかった。

  すると「金崎蟹澤の沿岸」というのは、梅乃屋からは近かったものの小さな沢にすぎず、それに、旅行隊はもう日の出前から、馬車で街道に乗り出していた。

  じつに簡単な消去法になるが、そうすれば残る場所は二つ、「大淵」と「野巻赤平川の沿岸」、これだけになってしまう。「大淵」は梅乃屋を出てから二`ほど、街道の左手に広がる、荒川沿岸の一帯であった。また「赤平川」のほうは、「大淵」を過ぎて間もなく、秩父大宮へのゆるい坂道を下りた先、赤平川に架かる郷平橋附近のことであった。

  一つを選ぶとすれば、化石も多く、作業もしやすい赤平川のほうであろうが、時間には余裕があった。「大淵」にも行ったと見てよいようである。

  その大淵では、街道から荒川まで約五百bほど畑地が続き、川原は最大幅約百五十b、約一`に渡って広がっていた。対岸にはまばらな雑木林が続き、背後の段丘には桑畑も見える。川原に露出した礫岩層と砂岩層を踏んで、一日の作業が始まったか。

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