2009年 9月 12日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉72 小川達雄 秩父路を行く・下3

    三、郷平橋

  大淵の川原のあとで、わたしは道に迷ってしまった。ふたまたに分かれた左への道を探していたのに、うす暗がりのその道に気づかず、だいぶ歩いていた。

  畑の年配の婦人に郷平橋への道を尋ねると、すぐ脇の小道を指して、

  「そこが近道です。橋の下から、化石が
  とれますよ。」
  と云った。

  化石のことはなにもいわなかったのに、それを云ってくださったのはすばらしい。じつに数千万年前の化石が、土地の方にはごく身近なものであったのだ。

  左にあげた写真によると、賢治たちは郷平橋へ、右側の大淵方面から正面の山(三四七b)の麓をやって来た。大淵で調査をしたとすれば、時刻はだいたい午前九時頃、気温は二十九度に達していたはずである。

  馬車は橋を渡って止まり、見学隊はまばらな竹藪を分けて赤平川の河岸に降りて行く。

  郷平橋の橋脚の下から下流へ、大小さまざまの岩石が固まった、茶色の礫岩(レキガン)層が続いていた。川の流れに浸ったテラスの部分から、褐色あるいは灰色の砂岩層が目の高さまで広がり、横一線に泥岩層、その先に凝灰岩(ギョウカイガン)と続いている。

  これは大淵の川原と同じ地層の連続であるが、大淵とは違い、郷平橋では清流から段丘状に岩石の層が重なっていた。目の高さの岩壁は崩落の危険があり、さすがに手はつけられなかったけれども、平たい岩床は下流へ百b余り続き、そこでは二枚貝や巻貝など、海の化石発見が期待された。

  妹のシゲさんによれば、賢治は中学一年夏の帰省の時、ワラジばきで十里の道を歩き、宮野目のあたりでは矢の根石をたくさん拾い集めて来たという。これは岩石への賢治の執着ぶりを語るエピソードであるが、賢治はいまや川原の石塊をたしかめつつ、はるか千五百万年ほども以前の秩父のようす|サメが泳ぎ、魚介類の豊富な海|を思い浮かべていたのではあるまいか。それは賢治の最も幸せな時、といえた。

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