2009年 9月 13日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉73 小川達雄 秩父路を行く・下4

    四、化石を求めて

  賢治たちが郷平橋にやって来た九月四日は、最高三十二度に達した、その月二番目に暑い日である。茶褐色の岩畳の上は、いっそう日差しがきつかった。

  足元には清流が音を立てて流れ、すぐ向こうの合流点には、美しい川原が広がっていたけれども、見学隊は草一本もない、平たいテラスが作業場である。

  テラスには、黄褐色や灰色の砂岩、さらに粘土質の泥岩が混じっていたから、賢治は調べているうちに、これは海底であった頃に起きた地すべりによるもの、と察したにちがいない。

  ※この七月の「盛岡附近地質調査」で、賢
  治は地上への花崗岩等の露出について、
  「(これは)上部の岩盤の削磨し去られ
  たるに因るものとす」と観察していた。
  これも数千万年に及ぶ間の地層変動への
  解釈である。

  さて昼休みのあと、郷平橋からは九`余りの奈倉を目指して出発。奈倉の通称ヨウバケの地は、化石の代表的な産地である。またそこは秩父盆地を代表する地層の観察地であった。賢治たちは大淵や郷平橋でいくつか貝類の化石を発見したのであろうが、それだけにいっそう、次はヨウバケに期待する気持ちがあったと思う。

  賢治たちの馬車は、郷平橋から野巻、太田、久長(ヒサナガ)と、五万分の一地図に記された集落を順に進んで行く。乗合馬車の順路は明治四十四年、秩父線が国神駅まで開通された時以来決まっていて、三台の馬車は通い慣れた街道を行く、単調な車輪の音を響かせていた。

  赤平川は街道の左手、杉林の下に見え隠れしていたが、太田集落の次の久長(ヒサナガ)集落を過ぎるあたりから、桑畑の向こうに離れて行く。そのあたりは、どこにでも見かける、ふるさとのような山村である。思い出したように藁葺きの農家が見えて、街道は次の集落へと続く。桑畑、寺、神社、柿の木々、出始めたススキの穂。

  出発してから二時間余りも過ぎた頃、左手の山塊に、ハの字を逆さにしたような白い崖が現れた。その隣には、剥き出しの大きな断崖が並ぶ。それは赤平川の右岸に連なる、奈倉のヨウバケであった。

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