2009年 9月 15日 (火)

       

■ 〈夜空に夢見る星めぐり〉240 八木淳一郎 望遠鏡の歩み(その2)

 色消しレンズの発明によって、18世紀に入るとイギリスのドロンド商会などから優れた屈折望遠鏡が量産され、天文学に大きく貢献します。そして19世紀から20世紀にかけては口径の大きなものが世界中に広められていきます。

  安定した星像が得られることや口径に対して焦点距離が長いこと(口径比と呼びます)などの特長を生かして、屈折望遠鏡は主に二重星や年周視差による星までの距離の測定、あるいは月、惑星の観測に用いられてきました。

  しかし、望遠鏡の命とも言えるレンズのガラス材が良好なものが、しかも大きなものが製造困難であることや、例え得ることができたとしても、大きなものではレンズ自体の重さでたわみやゆがみを生じてしまうことに問題があります。

  反射望遠鏡のミラーが周囲や裏側全体をさまざまに支えることができるのに対して、レンズの支えはその外周だけですから解決は困難です。屈折望遠鏡がそうした新たな問題を抱えている間に、近代天文学の世界は銀河系や銀河系の外の深宇宙に向かってテーマを広げ始めたのでした。

  もはや太陽系や1個1個の恒星の観測・研究だけではない時代に向かっていたのです。それには少しでも大きな口径の望遠鏡が必要です。

  しかも1838年の銀塩写真術の発明を皮切に、1857年の世界初の星の写真撮影成功に端を発した天体写真はその後の天文学の進歩になくてはならないものとなりました。

  そうしたことから口径比が小さい、すなわち明るい光学系の望遠鏡が求められるようになり、まさしく大反射望遠鏡が主役の時代に突入したのでした。

  そのことは、世界の主要な天文台や望遠鏡の動向をみれば一目瞭然です。現在、世界一を誇る屈折望遠鏡はアメリカのヤーキース天文台の口径102aのものですが、これが作られたのは1897年のことです。

  言い換えれば、それ以上大きなものは100年以上経た今日まで作られる必要性がなくなった、ということでしょう。

  ちなみに、わが国では東京・三鷹にある国立天文台の1930年製の口径65aのものが最大で、第一次世界大戦の戦利品としてドイツから贈られたものと言われています。

  東京帝国大学は主に官僚養成のための大学であり、天文学の分野においても暦や時刻の制定など国家の統制に係わることが第一の使命でしたから、欧米の天文学者がやるような天体観測は苦手としていたようです。

  余談が続きますが、ドイツはドイツで、当時、カールツァイス光学会社では欧州向けのものと、日本などアジア向けのものにレンズの性能の差別化を図っていたようです。わが国最大を誇る65a屈折望遠鏡の見え味はいかほどでしょう。

  幸か不幸か、観測に余り乗り気でない天文学者たちは、この大望遠鏡の扱い方に不慣れなことと相まって、ほとんど巨大な装飾品と言えなくもないものであった可能性が大きいようです。

  もちろんそうはいってもやはり官製の施設ですから、国民に向けての"かつては色々使われました…"との、お決まりのコメントは当然かもしれません
(盛岡天文同好会会員)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします