2009年 9月 20日 (日)

       

■ 〈早池峰の12カ月〉11 丸山暁 影は何でも知っている

     
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  空気が最も澄むこの時期、まだ暖かさが残るが凛とした朝日が僕の小さな谷間にも差し込んでくる。朝起きて着替えを済ませ表にでると、その光が草むらに、僕の影を大きく写しだした。その日最初に出会ったのは、僕の影だった。ここでの暮らしは数日、下手すると2、3週間、かみさん以外誰とも会わないことがある。ここでは影とてよき相棒である。

  ランドセルしょった学校帰り、夕日の中、友達の影を追いかけ踏みつけたり、先行く自分の影を追い越そうとジャンプするのだが、影もジャンプして結局影が先に行き、何度もそれを繰り返す。そんな経験を皆さんもお持ちでしょう。そんな影だが、大人になり、忙しく暮らし、特に都会では、自分の影を忘れてしまってはいないだろうか。

  ある男が自分の影を「金の出る袋」と取りかえてしまった。彼は、大金持ちになりぜいたくは手に入れたのだが、人間に当たり前にある影がないことで、世間から不審の目で見られフィアンセも去って、数奇な人生を歩むという物語、『影を無くした男』シャミッソー(岩波文庫)がある。

  ちょっとした大人の童話、岩波文庫☆1つの厚さなので読書の秋、寝転がっても簡単に読める。50代以上の読書人は、☆1つの意味はお分かりでしょう。

  当たり前にあるものが当たり前にあるうちは、それが、当たり前にあることへのありがたさに気づかないものである。

  以前、かみさんと半年間、リュックを背負って、西欧10カ国の放浪の旅に出た。初めは長年の夢がかない旅の珍しさも手伝って、楽しいだけの旅だったが、日を重ねると、言うに言われぬ不安が頭をもたげてきた。

  それは、日常の暮らし、当たり前な暮らしがそこにはないからである。新しい町に着けばまずねぐらを探し、食べ物を調達することから始まる。安宿には、自分の暮らしを支えるもの、趣味のものたちも何もない。

  何年もかけて培った当たりまえの暮らしがそこにはない。当たりまえに在るもの、それは家族や友人、今暮らしている地域、仕事かもしれない。人は往々にしてそれら当たりまえにあるものを鬱陶(うっとう)しがったり、取り替えたくなったり、捨てたくなることがある。

  しかし、それは影と同じ、なくなってみるとそのありがたさが分かるでしょう。

  そう考えれば自分の影とていとおしい。影は僕らが生まれた時に一緒に生まれ、見え隠れしながらいつも僕たちに寄り添い共に生きてきた。死ぬまで一緒である。たまにはそんな影を太陽の凛とした光で大地に映し出し、影に問い掛けてみるといい。

  きっと、影が今のあなたを、未来を語ってくれるかもしれません。影は、あなたが当たりまえと思い忘れていたもの、大切なものを思い出させてくれるかも知れません。影は何でも知っている。(丸山暁建築・空間工房、大迫・外川目在住)

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