2009年 9月 20日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉75 小川達雄 秩父路を行く・下6

    四、続々・化石を求めて

  ヨウバケから小鹿野への夕暮れの道には、藁葺きの農家、柿の木、桑畑、ススキの穂が続き、ふるさとと変わるところはなかった。もう一度その歌をあげると、
 
  さわやかに半月かゝる薄明の秩父の峡の
  かへり道かな  歌稿〔A〕三五〇
 
  その「かへり道」であるが、初めての客でも、「お帰りなさい」といって迎える、そんな宿屋があった。賢治がここで云いたかったのは、その道は初めてであったにせよ、心満たされてなつかしい道を行く、そうした安らぎの気持ちであったろう。

  ※ここのところ、あるいは小鹿野町に近
  い別の調査地点にまず行き、それからヨ
  ウバケに戻ったため、それで「かへり道」
   となった|とも考えてみた。その場合は、
  小鹿野の手前、信濃石から赤平川の川原
   へ、そこの特殊な地層の模様|葉理|の
  見学と、傾いた地層での走向と傾斜の学
  習、ということであろう(その地では恐
  竜の一種、パレオパラドキシアの化石が
  発見されているが、それは昭和五十六年
  のことであった)。
   しかし、そうなると最低二時間はかか
  り、後の高農の秩父見学にも、その地へ
  の記録はなかった。ここはまっすぐヨウ
  バケに行き、その地の化石収集によって
  満たされていた、としてよいと思う。

  いま、その歌を刻んだ碑は、ヨウバケに近い「おがの化石館」の庭に、保阪嘉内の歌碑と並んで置かれている。
 
     この山は
   小鹿野の町も
   見えずして
   大古の層に
   白百合の咲く
    保阪嘉内
 
  二つの歌碑の上には両側から椎の木が枝を差し伸べ、かなたには白いヨウバケの断崖が見えていた。その歌碑を見ると、この地にやって来た二人の青年がどんなに心を弾ませて化石を探したことか、つくづくしのばれてならなかった。

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