2009年 9月 22日 (火)

       

■ 〈保阪嘉内の短歌〉65 望月善次 ながかむざしの我

 ながかむざしの我袖にありとしもあ
  はれ幾度さわりて見しかな
 
  〔現代語訳〕お前の簪(かんざし)が、自分の袖にあるということを、ああ、私は幾度も触ってみたのです。

  〔評釈〕「空谷の跫音(〜かむざし〜」(署名 △△△生)六首〔『アザリア』第三輯(盛岡高農アザリア会、大正六年十月十七日)〕の二首目。前に置かれた冒頭歌では「そと渡されしかむざし」とあったが、その「そと」の具体は、抽出歌によって「目立たぬように袖に入れた」のだと推察できる。それを喜んだ話者は、何度もそれに触ってみるのである。「ありとしも」における強意の「し」や「あはれ」の中に、思いがけなさや喜びが表現されている。他愛(たわい)ないと言えば他愛ないが、男女のやりとりにはこうした部分は必然でもあろう。しかし、一種の必然であるだけに、そこから屹立(きつりつ)させて「作品」として確立させることは容易なことではないのも事実であろう。この時期の嘉内にそうした覚悟を求めるのは酷だとすべきであろう。が、そうした事実と共に、とにかく「かむざし(簪)」を中心素材として、一連六首を組み立て得る力量を備えていたことも、同時に認識しておくべきであろう。
(盛岡大学学長)

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