2009年 9月 26日 (土)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉76 小川達雄 秩父路を行く・下7

    五、小鹿野町

  この九月四日、高農生たちが宿泊した小鹿野町は、大宮町(現在の秩父市)に続く、秩父郡第二の町である。その大正五年末の戸数は、九百三、人口は五千十一(「埼玉県統計書」)。

  ヨウバケからは道の高低もなく、賢治たちは馬車にガタコト揺られて、畑の間を進んで行く。小鹿野町の入り口、信濃石では右手に神社と寺の建物が見え、やがてびっしり、両側に民家が並んだ大きな道が開けて来た。

  この日の宿は、町の中ほどにある旅館「寿」である。そこは旧幕以来の本陣の宿で、二階の上には、天守閣のような三階が威容を誇っていた。

  古沢清介(賢治と中学で同級、高農では一級上)は、この旅館に入る時のエピソードを、次のように語る。

  「〜当時の農学科二部は、関先生に引率
  されて、三泊か四泊かで、埼玉県の秩父
  へ地質旅行に出かけたんです。ところが、
  先生はあんまり気むずかしいもんで、た
  とえば旅館などでも、先生より一歩でも
  早く入るのは絶対にタブーだという言い
  伝えがあった。代々の先輩がそう言うわ
  けです。ところが、宮沢さんだけはその
  限りではなかった。彼だけは、先生より
  早く、サッサと旅館に入っていったとい
  うんです。たいした立派な学生だと痛感
  した記憶があります。」(読売支局『啄
  木 賢治 光太郎』)

  古沢が一級上であってみれば、これは伝聞であろうが、しかしじゅうぶん、あり得る話である。考えてみると、秩父旅行の宿は国神の梅之屋とこの「寿」、三峰神社宿坊、大宮の宿の四軒であって、その場所としては、この宿であったのではなかろうか。

  秩父の見学旅行は、渡し舟の喜びからヨウバケでの満ち足りた思いへ、この日は一段と高まっていた。賢治はまるでお先払いのように、スイと入ってしまった|そんな状態であったのか、と思う。

  賢治は翌朝、嘉内宛の葉書を投函するが、そのポストは左の写真の手前、右側で、このことは自然史博物館・田口聡史氏からの教示で知った。

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