2009年 9月 27日 (日)

       

■ 〈早池峰の12カ月〉12 丸山暁 松葉ボタンから運命を考える

     
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  本来は夏の花の松葉ボタンだが、知らぬ間に、花壇の縁石の間で大きな真っ赤な花をつけていた。こんなところに松葉ボタンを植えた覚えはないのだが、いつの間にか芽を出し大きく育っていた。確かに数年前、庭の何カ所かに松葉ボタンを植えたことはあるのだが、こんなに立派な花ではなかったと記憶している。

  わが家では、ちょうど1千平方bの土地の半分ぐらいに野菜と花やハーブたちを育てている。ほとんどの野菜や花たちは、畑や花壇を耕し肥料を施し、丁寧に種を蒔(ま)き、ちゃんと育った苗を植え、それらの多くはまともに育つのだが、中にはちっとも大きくならずひ弱だったり枯れてしまうことがある。

  ところが面白いもので、そうやって大事に育てたものよりも、種を蒔いたとき地面にポロリと落ちた奴や、出来が悪く捨てたはずの苗が、勝手にスクスク元気に大きく育つことがある。

  また、ちゃんと花壇で大事に育てた花より、わが家のどこかで種をつけ、忘れていたころにひょっこりあらぬところ(花壇の石組みの間や砂利道など)から芽を出しあでやかに花開くものたちがある。

  これは、TVなどでも紹介される根性大根や盛岡地方裁判所前の石割桜を思い浮かべていただくといい。さて、人間の人生もどこか彼ら野菜や花たちの一生と似てやしないだろうか。

  人間は、野菜や花たちと同じように自分が生まれ出る時代・環境・親を自らは選べない。どこに生まれ落ちるかは偶然、すなわち運命である。しかも運命とは不条理なもので、お坊ちゃま、お嬢様に生まれたからとて一生お坊ちゃま、お嬢様のままでは生きられない。また極貧の子せがれが天下人になったり、灰担ぎ娘(下女)が王子に見初められてお姫様になることだってある。人間の運命には悪戯が待っている。さて、運命とは偶然か必然か?

  日本哲学(僕の造語)の巨人、九鬼周造の『偶然性の問題』(岩波書店)には、カントやヘーゲル、ハイデッガーなどの運命論、運命とは「必然の中の偶然」「偶然を含んだ必然」「偶然も必然も同じ事」など、分けのわからない事が書いてあるが、僕にはギリシャの哲人ヘラクレイトスの「人間はどの道運命づけられているが、同時に、最も美しい世界は出鱈目(でたらめ)に積み上げられた塵芥(ちりあくた)のかたまりである」と言っているのが妙に腑(ふ)に落ちる。

  彼は「どっちに転んでも、人生はなるようにしかならない、思いのままに生きなさい」と言っているのではないか。人生は、思い通りにならないが、いつかどこかで見事に花開くかもしれない。隅っこの小さな花でも蕾(つぼみ)のままでもいいではないか。

(丸山暁建築・空間工房、大迫・外川目在住)

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