2009年 9月 27日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉77 小川達雄 秩父路を行く・下8

     六、山中地溝帯

  明けて九月五日は、小鹿野町から奥秩父の三峰神社へ、再び馬車を連ねての旅である。この日については、六日に投函した保阪宛葉書の歌があった。
 
  あはあはとうかびいでたる朝の雲われら
  が馬車の行手の山に。
  友だちはあけはなたれし薄明の空と山と
  にいまだねむれり。
 
  この朝の雲量は二、「あはあはとうかびいでたる」というにふさわしい。賢治は、見たとおりのままをうたっているが、すると「薄明」というのは、日の出前のまだ薄暗がりの時であった。

  この朝の日の出は午前五時十五分頃で、見学隊は宿を五時くらいには出発していたらしい。賢治は三峰神社に到着して

  大神にぬかづきまつる山上の星のひかり
  のたゞならなくに。

  こううたっていた。

  すると、それは午後七時過ぎの頃のことで、この日は午前五時から午後七時まで、およそ十四時間のあいだ、賢治たちは行動していた、ということになる。

  これはこの日の見学地を求めているのであるが、小鹿野町から三峰神社の麓まではほぼ二十`、だいたい六時間。その麓から山道を一時間登ったから、差し引き残るのは、約七時間。その間の見学といえば、それは秩父の地形・地質を具体的に示す、〔山中地溝帯(サンチュウチコウタイ)〕を確かめるために、小鹿野町から西へ進んだ、と考えられる。

  山中地溝帯については、神保小虎「秩父巡検案内」に解説されていたが、それに引用されていた横山又次郎博士の所見をあげておく。

  |小鹿野の西の田の頭の地点から、ほぼ
  一直線に、山中地溝帯の窪地が信州まで
  白堊層で続いている。白堊紀(約七千万
  年〜一億三千五百万年前)においては、
  この地帯は深い湾でフィヨールド状をし
  ていたのであろう|(『地学雑誌』明治
  二十六年五十一巻から現代語で要約)
  そこは古くから注目されていたのである。

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