2009年 11月 1日 (日)

       

■ 〈宮沢賢治の盛岡高農時代〉87 小川達雄 ちゃんがちゃんがうまこ3

     三、下のはし

  この年、大正六年のちゃぐちゃぐ馬こは端午の節句の日(旧暦)に当たる、六月二十三日に下の橋を渡った。

  賢治は初めて目にした馬この行列に、いたく新鮮な印象を抱いたらしい。七月、文芸誌『アザリア』の創刊号には、方言による歌、「ちゃんがちゃんがうまこ」八首を発表した。『アザリア』とは、高等農林の文芸仲間十二人による、謄写版刷りの同人誌である。

  後にはそれが「ちやんがちやんがうまのうだ四っつ」の題によって、主に妹トシの浄書による、いわゆる『歌稿A』に記され、さらに賢治自筆の『歌稿B』には、なお推敲を加えた「ちゃんがちゃがうまこ」四首として記されるに至った。

  その一つ一つから、賢治の丹念な推敲の跡を読み取ることができるが、その最終稿は、次の歌から始まっていた。
 
  夜明げには
  まだ間あるのに
  下のはし
  ちゃんがちゃんがうまこ見さ出はた人
                 五三七
  この作品の中に浮かんでいるのは、まだ薄暗い空間に横たわる、下の橋の姿である。それはようやく、午前三時を過ぎた頃の情景であったろうか。

  というのは、この朝の日の出は午前四時八分あたりのことで、夜明けというのは、『天文観測年表』(二〇〇七年版)によれば日の出のおよそ三十九分前のことであり、その「うまこ」を見に出て来たのは、その夜明けにも「まだ間あるのに」という時間だったからである。

  「うまこ」の行列を待ちかねる人、そしてその人々と同じ気持ちを抱いた賢治。「下のはし」は、そうした期待の念に染められ、ほの暗いうす闇の中に浮かんでいる。

  これは日常ふつうの下の橋ではなく、ちゃがちゃが馬こが渡って行く、年に一度のドラマの舞台であった。そうした思いから、賢治はこれに一行を与えて「下のはし」と記し、この歌の核心としたのであろう。これは不動のまま、たしかに息づいている。

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