2009年 11月 3日 (火)

       

■ 〈夜空に夢見る星めぐり〉242 八木淳一郎 望遠鏡の歩みその5

  米国に一人渡った土佐の人、山崎正光(1886〜1959)が帰朝後、反射望遠鏡用の放物面のミラーの研磨法なるものを広く普及・啓蒙させ、これが京都大学宇宙物理学教室の助手、中村要(1904〜1932)などの製作家を育てることになります。

  大正時代、京都には西村製作所という機械を製造する会社がありましたが大正15年、第1号となる口径15センチ反射望遠鏡を製作したのを皮切りに中村の研磨したミラーを搭載した望遠鏡を作り出していきました。

  京都大学からの発注も相次ぐなどして、わが国の望遠鏡専門メーカーとしての不動の地位を築き上げることになるのでした。

  そして、若くしてこの世を去った中村要の後を引き継ぐように、本職がお寺の住職である佐賀の木辺成麿や、西村製作所とは関係ないのですが福岡県の星野次郎、彗星発見で名高い浜松の池谷薫といった反射鏡研磨の名人たちが誕生していきます。

  ところで西村製作所の望遠鏡は岩手県にも、一戸町観光天文台や八幡平市の焼走り国際交流村天文台の50センチ反射望遠鏡があります。

  ほかにも旧水沢緯度観測所の観測機器や、花巻市にある岩手県教育センターのニコン20センチ屈折も望遠鏡を載せる赤道儀架台は西村製作所の手によるものです。

  一方、首都東京に五藤光学研究所というメーカーがあります。

  今でこそプラネタリウム専業メーカーとして世界に名をとどろかせる会社であり、盛岡市子ども科学館のプラネタリウムもこのメーカーの製品ですが、昭和初期の創業当時は口径2・5センチや4〜5センチの小さな屈折望遠鏡を初めは紙や木を使って、それも普通の民家の中で作り始めたのでした。

  全国の小・中学校に文部省準拠の望遠鏡ということで納入することによって会社は急成長します。

  手抜きのないレンズや機械部分の性能は定評があり、各地の理科センターや教育センターといった施設には五藤光学製口径15〜20センチ、中には25センチといった大型の屈折望遠鏡が数多く据え付けられていきます。

  奥州市衣川には神奈川県にあった五藤の20センチ屈折の2号機が移設されています。ところで、かのビッグブランドであるニコンは望遠鏡に関してどうだったでしょうか。

  大正のころから輸入され、これをモデルにして日本光学(現ニコン)は小型の望遠鏡の製造に着手します。

  小型とは言っても当時家一軒の値段とも言われた望遠鏡は現代のように普及するまではいきませんでした。

  それでもしばらくの間、小型の望遠鏡を手掛け、優れた光学性能はさすがは日本光学との高い評価を得ていました。

  昭和30年代の盛岡二高に口径5センチのものがありました。コスト的に割が合わない為でしょうか、やがて望遠鏡の世界からはすっかり撤退し、今は専ら双眼鏡のラインアップに力を注いでいます。

  語りぐさともなり、今でも天文関係者垂涎(すいぜん)の的であるニコンブランドは、ひところ口径15〜25センチの大型の屈折望遠鏡も製作したことがあります。

  昭和44年、盛岡市高松にあった旧岩手県教育センターには、ニコンが自らすべてにわたって製作した数少ない20センチ屈折望遠鏡が選定され備え付けられました。

  当時指導主事であった横沢一男先生の尽力によるものであり、理科学方面ではこれらも数少ない?岩手の快挙と申せましょう。20センチは平成5年から小岩井まきばの天文館に移設されいまもなお活躍し続けていますし、ニコン自身も誇りにしています。

(盛岡天文同好会会員)

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