2009年 11月 7日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉133 岡澤敏男 童話「耕耘部の時計」の背景

 ■童話「耕耘部の時計」の背景

  この童話のタイトルの「耕耘部」という名称から、舞台が小岩井農場であるとすぐ理解されます。「耕耘部」は800町歩(f)の農耕を管轄する小岩井農場の一部門ですが、賢治の作品には小岩井農場のシンボル的な事業所として登場するのです。

  まがりかどには一本の青 木
  (白樺だらう 楊ではな い)
  耕耘部へはここから行く のがちかい
  「小岩井農場」パート四
  ね、そらもう耕耘部の
  亜鉛の耕耘部の屋根が見 えで来た。光つてゐる
   「小岩井農場」下書稿
  南の雲の縮れた白い火の 下に
  小岩井の耕耘部の小さく 光る屋根を見ました
  「母に言ふ」

 
  農場の入口に「もの売りきのことりお断り申し候」という立て札があるように、とかく用件のない者には閉鎖的な管理体制があり、たとえ用事があって来場しても本部(現管理部)の窓口で来意を告げ記帳するのがきまりでした。

  ところが、本部の受付簿に宮沢賢治の氏名が皆無だとわれている。本部の受付簿の上では賢治は一度も来場していないのです。だが作品や友人の証言からみてそんなはずはありません。そうすると賢治は本部に寄らずに別ルートから入場したことが考えられます。

  それは〈耕耘部にはここから行くのが近い〉と暗示するルートです。それは巡り沢を渡って農場入口から木立ちの小道を歩行し本部・育馬部分岐点を本部へ左折せずに網張街道を直進するルートです。

  やがて馬トロ軌道と白樺が立っている地点に出て賢治は〈耕耘部へはここから行くのがちかい〉農道を右折し耕耘部へと向かうのです。

  賢治は「耕耘部」の窓口で来意を告げ記帳したのでしょう。賢治には「耕耘部」こそが小岩井農場の窓口だったとみられます。

  賢治がいつごろから「耕耘部」を窓口にしたのか不明だが、賢治を「耕耘部」に結びつける機縁をもたらしたのは「耕耘部」責任者である鈴木彌助主任との邂逅(かいこう)にあったと推察します。

  鈴木彌助(明治17年山形県生まれ)は明治41年7月、東大農学実科を卒業、直ちに小岩井農場に技手として入社し大正5年耕耘部主任になっている。この鈴木主任と賢治の恩師関豊太郎とが東大農学科の同窓だったことが賢治と「耕耘部」を結びつけた機縁となったのではなかろうか。

  関豊太郎(明治元年東京生れ)は明治25年、東大農学科を卒業し明治38年に盛岡高等農林学校教授に就任して気象、物理化学、地質・土壌学の講義を担当した。

  関教授は農学科第二部(農芸化学科)部長として大正4年に入学した賢治たちを指導したが、特待生で級長だった賢治には気難しいと定評ある関も親しく接し、将来は助教授へと嘱望する愛弟子でした。

  関教授は特に火山灰土壌の改良に対する石灰岩末の効果についての持論があって賢治にも影響を与えたが、火山灰土壌をかかえる小岩井農場も深く関心を寄せる課題だったのです。

  明治43年にロンドンで開催された日英博覧会に盛岡高等農林より出陳したリストの中に小岩井農場の火山灰土壌標本5点がある。これは関教授が農場から何トンも採取して作成した標本と言われます。

  この時点で鈴木主任と関教授は同窓としての面識を確認したとみられるのです。「耕耘部」を訪れた賢治を関教授の愛弟子と知ったとき、鈴木主任が賢治を信頼して厚遇したことは想像の余りごとでないと思われます。


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