2009年 11月 14日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉134 岡澤敏男 六原から転入してきた男

 ■六原から転入してきた男

  「耕耘(こううん)部の時計」という童話は「午前八時五分」、「午前十二時」、「午后零時五十分」そして「午后五時?」の4つの時間帯の場面で構成する短篇で、「農場の耕耘部の農夫室は、雪からの反射で白びかりがいっぱいでした」という1月の農夫室で始まっている。

  この農夫室とは耕耘部の事務所に隣接する建物にある詰め所を指すとみられるが、農場ではこの建物を「農夫舎」と呼んでいました。

  ちなみに「農夫舎」は大正3年9月に改造され、それまで馬林舎にいた樹林部の農夫たちも「農夫舎」に移転したというから、この建物には耕耘部と樹林部の2つの農夫室が所在したわけなのでしょう。

  だがこの童話の農夫室は、いうまでもなく耕耘部の農夫室なのです。室内の床は土間で、中央に炉があり炭火が「チラチラ青い焔を出し」て室内を暖房し、炉に置かれた大きな釜に湯が煮えたぎり盛んに湯気がたっている、そんなくつろいだ詰め所なのです。

  第一章は「午前八時五分」というタイトルで「農夫たちはもう食事もすんで、脚胖を巻いたり藁沓をはいたり、はたらきに出る支度をして」いる場面を描写し始業直前の詰め所の緊張した空気をつたえています。

  ところが大正初期における耕耘部では春秋の始業時間は午前6時からで1日の労働時間は9時間から11時間もあったが、冬季の労働時間は8時間ないし8時間30分で始業は「六時四十五分か七時から」だったという。

  また1日の休憩時間は昼1時間と午前午後に15分の休憩があったが、冬場には春秋より終業時間が短かいので午後の15分休憩はなかったというのです。したがって「午前八時五分」という始業事情からみると、この童話はもっと時代が進んだ大正後期ごろが舞台となっているのがわかります。

  川崎・三菱造船所の争議に代表される激しい労働運動を経て労働者の長時間労働が改められ実働8時間制が採用されるようになったのは大正8年以降のことといわれ、大正10年には日本農民組合が創設され農民運動が激化していったのです。

  そのような時代背景のなかで耕耘部の就業時間にも変化をもたらしたのでしょう。そして始業が1時間短縮し「午前七時五分」から「午前八時五分」になったものとみられます。

  そのとき「俄に戸があいて、赤い毛布(けっと)でこさへたシャツを着た若い血色のいゝ男」がはひって来たのです。この赤シャツの男は「黄いろなゴムの長靴」をはき脚を「きちんとそろへ」「まっすぐに立って」農夫長にあいさつをしました。

  この男こそ童話のヒロインとして活躍する人物だった。「赤い毛布」は賢治作品に好んで使われ、とくに詩篇「日輪と太市」、童話「水仙月の四日」では主役のシンボルともなっており、この童話でもヒロインを呪術化させて「赤い毛布(けっと)」のシャツで登場させたとみられます。

  この赤シャツ男は六原を辞めて小岩井農場に転入し耕耘部に配属されたものと紹介されている。六原とは陸軍省軍馬補充部六原支部のことで、軍馬補充策として明治31年に胆沢郡相去村に設立されたもので、幼駒を地方より購買育成し、これに軍事的素養を与えて軍隊に供給するものでした。

  赤シャツの男が「脚をきちんとそろへ」直立した姿勢で農夫長に応答する様子にはまさに軍隊仕込みの経歴が反映しており、赤シャツ男と小岩井農場の農夫たちとに交錯する時間の観念の微妙な食い違いがこの童話のモチーフなのです。

 ■童話「耕耘部の時計」より抜粋

  その男は、黄いろなゴム長靴をはいて、脚をきちんとそろへて、まっすぐに立って言いました。

「農夫長の宮野目さんはどなたですか」

「おれだ」

  かゞんで炉に靴下を乾かしてゐたせいの低い犬の毛皮を着た農夫が、腰をのばして立ちあがりました。

「何か用かい」

「私は、今事務所から、こちらで働けと言われてやって参りました」

  農夫長はうなづきました。

「さうか、丁度いゝ所だった。昨夜はどこへ泊まった」「事務所に泊まりました」

「さうか、丁度よかった。この人について行って呉れ。玉蜀黍の脱粒をしてるんだ。機械は八時半から動くからな。今からすぐ行くんだ」農夫長は隣りで脚絆を巻いている顔のまっ赤な農夫を指しました。


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