2009年 11月 22日 (日)

       

■ 〈胡堂の父からの手紙〉最終回 八重嶋勲 連載4年半、318通を紹介

 ■318半紙 明治39年10月16日付

宛(東京市)伯父石杜冨蔵氏上京に託す。
発(岩手県紫波郡彦部村大字大巻)
前畧 石杜庄作氏病状及下宿屋費詳細取調報告スベシ、豫而三十円ノ請求ニ候得共一時ニ三十円ノ送金容易ニ出来ス、来月上旬迄ニ米出石セシトキ迄ニ送金スルコトゝ可致候、去ル日冨蔵殿出立之際金拾円送付セシ筈尤モ同人ヨリ相渡シタルコト通知相成居候、
送付セシ林檎ハ何如ニカ土産ニテモセシカ又ハ舎内ニテ食味セシカ若シ残リアルモノトセハ原達君哉上野氏又ハ穂(保)積ト云フ方面ニ土産セシナラ或ハ國産ニテ珍味セラルゝナラン
伯父君ハ出来得ル限リ便適ヲ与ヘ諸事ニ尽力スル様可致、併シ可相成学校ノ方ノ欠席セサル様是又注意可致候、当方ニハ変リタル事モ無之老祖母ノ病状ハ夏頃ヨリ少シク善キ方ナラン、獨リテ台所ニ日ニ五、六回モ往行シ言語モ左程セハシクナキ様ナリ、
栗ノ實ハ大豊作ナリ、一舛三銭五厘、林檎上等一箱貳円六十銭位、米七斗ニテ拾壹円位ナリ、
先達中ハ霜降早カリシニ今日頃至リ却テ暖気ニナリ、折角心配セシ稲作モ心外好結果ナルモノ如シ、併シ平年ニ比シ、二、三割ノ減穫ナラン、
彦部ノ図書館ハ書籍従覧所ト改称シ、盛岡、一ノ関除ノ外村落ニシテ第一着模範ト称譽セラレツゝアルモ田舎丈残念ナルコトハ晝間新聞見両佐藤善・長、石ケ森ノ外未タ従(縦)覽人ノ来ラサルハ残念ノ気味ニ候、
頃日新聞送付スルモノニ対シ教員有志者切手代計リモ送金セントシテ相談シツゝアル様ニ見受ケ候、尤モ新聞毎日之様ニ送付シ(ス)ル事ニ就テハ如斯熱心ノ人卒先スルカ故ニ容易ニ図書館創始セラルゝニ至リタルナラント心アル人称譽シツゝアリ、是迚モ多分ノ散財スル様ノ事ハ中止スル方可能候、
伯父様不容易散財スル事ニ候得者下宿屋ニテ食事スル等ハ一切致間敷候、庄作ニハ折節見舞何カ面白キ咄シニテモ致気慰スル様ニセラレ度候、
同人当地出立ノトキハ余リ軽少等ハ想ヘ(ヒ)候得共金五十銭、林檎二十粒計見舞セシノミ、学校ヨリ下宿屋迄何里何丁位アルヤ、又医師迄何里(何)丁ナルヤ、序テニ回報スベシ、
何時モ申述候通苦学同様ニ総テノモノヲ節シ油断ナキ様勉強セラレ度候、
少々雑事ヲ記シ次回報ヲ待ツ、早々
   十月十六日     野村長四郎
    野村長一殿
 
  【解説】「前略、石杜庄作氏の病状及び下宿屋の費用の詳細を取り調べ報告せよ。かねて30円の請求であるけれども、一時に30円の送金は容易でない。来月上旬までに米を売り出し送金することとする。

  さる日、石杜冨蔵殿が出発の際に10円送付した。もっとも冨蔵殿から、長一に渡したということを知らせてもらっている。

  送った林檎はどのようにしたのか。土産にでもしたのか、または舎内で食味したのか。もし残っているのであれば原達君や上野氏または保積あたりにも土産にしたら国の産として珍味と言われるだろう。

  伯父様にはできるかぎりお世話をしていろいろ尽くすようにせよ。しかし、なるべく学校の方は欠席しないよう、これまた注意せよ。当方には変わったことはない。老祖母の病状は夏頃から少し良い方である。独りで台所に日に5、6回も出入りし言語もさほど悪くないようである。

  栗の実は大豊作である。1舛3銭5厘、林檎上等1箱2円60銭位、米7斗で11円位である。

  先だって中は降霜が早かったが、今日ごろになってかえって暖かになり、心配した稲作も案外好結果のようである。しかし平年に比べ2、3割の減収であろう。

  彦部尋常小学校の図書館は書籍従覧所と改称し、盛岡、一関除きの村では第一着の模範であると称誉されているが、田舎だけに残念なことには昼間に新聞を見るのは佐藤善、佐藤長、石ケ森の外はいまだ縦覧人の来ないのは残念である。

  日ごろ長一が、新聞を送付してくれているのに対し教員の有志者が切手代ばかりも送金しようと相談しているように見受けられる。もっとも新聞は毎日のように送付されることについて、このように熱心な人が率先するため容易に図書館が創始されに至ったのだろうと心ある人は称誉している。これとても多分の散財をするようでは中止するのが良いだろう。

  伯父様が不容易に散財しているようであるが下宿屋で食事するなどは一切しないようにせよ。庄作氏には折節見舞し何か面白い話をして慰めるようにせよ。同人当地を出発の時は、あまりにも少ないとは思ったが、50銭と林檎20個ばかりの見舞いをしただけである。

  学校から下宿屋まで何里何丁位あるや、また医師まで何里何丁であるか、ついでに知らせよ。

  何時も言っているように、苦学同様に全てのものを節して油断ないよう勉強するようにせよ。

  少々雑事を記した次の回報を待つ。早々」という内容。
 
  長一、東京第一高校3年、24歳。母方の従兄弟の石杜庄作氏が眼病治療のため上京中。そのため富蔵伯父様が度々上京するのである。

  彦部尋常小学校にいち早く図書館を併設し、岩手県では、盛岡、一関に次ぐ早い創設であり、他の市町村の模範であるという。

     ◇     ◇

  平成17年4月3日を第1回として始めた「父からの手紙h野村胡堂に注いだ愛情」も、今回で最後の318通目となった。保管されている父長四郎の手紙全部を毛筆の原文の活字化と若干の解説を交えてご紹介した。

  長一が、岩手県尋常中学校(のち岩手県立盛岡中学校と改称)に入学した、明治29年3月から同31年11月までの約2年8か月分の手紙推定70通と保管されている最後の手紙の同42年7月から同43年8月3日、父長四郎が乙部村長在任中に急逝するまでの約1年間の手紙推定38、9通、合わせて110通ほど。そして全体的にも、もっと手紙があってしかるべき何十通かが保管されていないのは残念である。

  特に、明治43年3月、父長四郎が一人上京し、ある蕎麦(そば)屋の2階で、金田一京助と長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)の介添えで、長一と橋本ハナがもりそば1枚の結婚式を挙げたという。この頃の大事な手紙が保管されていないのは誠に惜しい。

  そして、明治43年8月父長四郎が急逝したため、学費の送金が途絶え、長一はアルバイトをして懸命に頑張るのであるが、帝国大学の授業料を納めかね、大学卒業を目前に除名されてしまったのであった。父子ともに不運なことであり、ことにも父長四郎の心を思うときなんとも無念であったことだろうと思われてならない。

  ともあれ、保管されている318通の父長四郎の手紙は、長一への限りない愛情と大きな期待の心情が満ちあふれており、長一の少青年期の人間形成に多大な影響を与えていることはもちろんであり、その後の生き方、生涯の指針となっていることは紛れもないことである。

  ご存じの通り、長一は長じて「野村胡堂・あらえびす」として、ジャーナリスト、大衆小説家、音楽評論家、そして野村学芸財団創設者として大きな足跡を残す人物に大成したのであった。

  最後に、「盛岡タイムス」には4年以上にわたり、大きく紙面を割き、全通を掲載していただいたことに対し心から感謝申し上げ終わりとする。(完)

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