2010年 4月 10日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉155 岡澤敏男 共同で竪穴住居づくり

 ■共同で竪穴住居づくり

  3人のおかみさんと9人の子供を連れて新天地をめざしてやってきたのは総勢16人でした。4人の男の中の1人は未婚の若者であるらしい。男たちは森との契約をはたしさっそく住居づくりに着手しました。
 
  「その日の晩方までには、もう萱をかぶせた小さな丸太の小屋が出来てゐました。子供たちは、よろこんでそのまはりを飛んだりはねたりしました。」
 
  丸太の小屋とは竪穴式住居のことで、男たちはすでに熟達した技術をもっていたと見られる。男たちは山刀(なた)・三本鍬・唐鍬のほか「山と野原の武器」を帯用したという。たぶん竪穴を掘りならす鉄製工具類もあったのです。

  「日本の古代遺跡・岩手」(保育社)によると、遠野盆地の高瀬遺跡には平安時代の竪穴住居36棟と掘立柱小屋22棟があり22坪から2坪の方形住居跡をみるが、住居の北側にカマドをもち遺物に墨書文字のある土師器や土の紡錘車、鉄製品の小刀、刀子(とうす、短い刀)、矢じり、鋤、錐、鎌、穂摘み具などの農機具、鍛治用具などが出土しているほか、米や大麦、粟、小豆などの食料品の貯蔵がみられたという。

  滝沢の平安時代住居跡も方形であり、煙道・カマドが東側にあるのは別として、鍛治工房跡に鉄製の農具が発見されており、4人の男たちもほぼ同様の社会生活を営んでいたものと推察されます。

  総勢16人だったから、10坪くらいの住居が必要とされます。竪穴住宅を作るには、まず野原に場所を定めて地面を掘り、床面を土中に設け、竪穴の壁をつくり柱を立てて屋根をかけます。だが10坪の面積でも深さ60aの竪穴を掘ることはかなり労力の要る仕事なのです。

  三本鍬、唐鍬を使って粗く掘り起し、鉄製の小道具などで土をほぐしその土を両手ですくっては外に排出し床面を整えます。そして柱穴を掘り丸太柱を立てます。それは森から山刀で伐採したナラ類の丸太柱です。やがて梁を渡し地面まで垂木を下ろして萱で屋根を葺くのです。

  その屋根の萱は女たちが鎌で刈り取ったものでした。屋根が地面と接し、北風や吹雪から室内が防御され夏涼しく冬は保温に富む半地下式住居を代々うけついできたのです。

  ただし東南の部分は出入口として屋根にひさしを設けくぐり戸式にしました。このような10坪の竪穴住宅作りというハードな仕事をたった1日でなし得たのは、身長こそ高くないが男たちの下半身の骨格のがっしりとした屈強の成人だったからなのでしょう。
 
  「つぎの日から、森はその人たちのきちがひのやうになつて働いてゐるのを見ました。男はみんな鍬をピカリピカリさせて、野原の草を起しました。女たちは、まだ栗鼠や野鼠に持って行かれない栗の実を集めたり、松を伐つて薪をつくつたりしました。そしてまもなく、いちめんの雪が来たのです。」
 
  地面までとどく茅葺き屋根のおかげで室内に雪が吹き込むこともなく、壁際のカマドの暖炉で子どもたちは安心して眠り、カマドの明りで女たちはフジ、コウゾやアケビ、野ブドウなどの皮をより紐にしてムシロ状のものや編布を製作していたし、男たちは鉄の矢じりをつけて兎や鹿を狩猟したり川の氷を割って冬眠するイワナなどを漁獲したりしていたのでしょう。


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